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リストマーク「ノートルダム大聖堂の炎上について思う」

大聖堂の燃え盛る映像を見て何か精神的ものが崩落する感がした。
大聖堂という伽藍(形骸)と共に精神(信仰)も崩れ落ちたかの
ように思えた
早速、再建の話しが起こるとブランド大企業からの数千億円の
寄付金のあっという間に申し出があったのは驚きである。
ここにも信仰よりもお金が幅をきかしている。
マクロン大統領の貧富の格差政策に怒りと大企業の金の
気前の良い出し方に民衆は怒り大きなデモが起った。
フランスは一応キリスト教国である。イエスの教えである貧しい
人々の窮状に目を向けその訴えに耳を傾けるべきであるである。

大聖堂の建て直しが緊急かもしれないが、生ける人間の問題
の方を優先すべきである。また、何よりもすべき事は、
他の大聖堂に集まって、懺悔とミサをすべきである。大聖堂は歴史的

芸術的建物ではあるが、
あくまでも神、イエス・キリストを
礼拝し、罪を懺悔する聖なる場所であることを忘れてはならない

2019年  5月15日)

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リストマーク「桜から青葉へ」
ーどちらを好むかー

教会前の「京都御所桜の満開の時期とと重なり
多くの人々が来られにぎわいました。桜の種類も
色とりどりであり、ほんとうに華やかでした。しかし、見ごろは
みじかく、春の嵐もありあっと言う間の盛りでした。
古来から、桜ははかないものの代名詞のひとつです。
それでも、桜は日本人にとってはもっとも好まれる花のひとつ
です。桜の季節となりますと、日本人はすべてそわそわし、

浮き足だします。
今、御所のけやきやかえでは芽吹き、日ごとにその緑色は濃く
なってきています。毎日、御所にはいりますが、その青葉は

鮮やかさを増してきます。街路樹の銀杏の木も青い芽がふくら
まもなくいちょうの葉」で埋め尽くされるでしょう。
わたしはどちらが好きがと問われれば、やはり桜よりも新緑の
を好みます。桜は「平家の盛衰を物語る」ように世の無常を
感じま
す。しかし、青葉、新緑は新しい力、希望を感じさせ、
なにかパワーをもらえる気がして爽やかな気分に浸れます。
桜を壮年、老年にたとえれば、青葉は生命そのもの、どんどん

成長する青年にたとえることができるのではないでしょうか。
わたしは70歳を越えた老人ですが、いつも御所の青葉を見て
元気をもらっています。(2016年 4月15日)


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リストマーク「子どもを誘う危うい罠」


今回の中一男女の遺体遺棄事件は、社会に大きな
ショックと怒り引き起こしました。容疑者の残忍さに対
するおどろきは大きいものがあります。
また同時に、犠牲となった二人の行動から私たちが
目を向けなければならない子どもの危うい環境があ
ります。それは携帯電話・スマホによる子ども
たちを誘惑するさまざまなコンテンツがあるという
ことです。特に子どもたちは、そうしたものに
ほどんど警戒心を持ちません。援助交際を求める女子
中高生、また自分の使用した下着をネットを通じて
売り、お金を得ようとする女子がいることも事実です。
だいたい事件に巻き込まれる子どもたちの家庭環境
は共通しています。つまり、親から虐待・ネグレクト
されているとか、家庭に居場所がないとか、
家に寄り付かず、街や路上を浮遊している
子どもたちです。こうした子ども
たちが悪いおとなたちの「蜘蛛の巣」にひっかかり
その毒牙にかかり餌食となるのです。
いま、子どもを取り巻くSNS、LINE,、フェイスブックなど
の正しい使い方、つまり、そのようなものはいつ危険な
目に遭うか恐ろしいツールであることを学校で家庭で
しっかり教える必要があります。そのことなくして、不
用意にケイタイ・スマホを与えてはなりません。
問題を抱えている家庭が子どもを守れない場合は
、地域、学校保護者の会などがどうすればこの
ネット社会の危険性や罠から子どもたちを守れるか
を考えなければならないでしょう。
(2015年 8月25日)
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リストマーク「日本人はほんとうに無宗教なのか」

朝日新聞のアンケート記事から取り上げてみたいと思い
ます。 「神や仏を信じますか」という問いに、信じる 
58
%、信じない42%とありました。これから見ますと、
約半数以上の人が信じているようです。しかし、別の面
から「神頼みしたいことがありますか」という問いに対し
ては、75%あります。
これから見るわたしの判断では、日本人は一応無宗教
を装っていますが、じつのところ大変ご利益主義で、
パワースポットあると聞けばそこへ出掛けるし、宝くじが
よく当たる神社があれば人がわんさか駆けつけるし、何
かご利益がある「物」、「動物」、「現象」もろもろがあれ
ば飛びつく人が多いです。信心といってもその程度の
ものです。
 他方、信じない理由として挙げられているのは、@科
学的でない、A存在理由が証明できない、3神頼み
してもかなわない、C頼れるのはじぶんだけだといった
ものが見られます。これらの理由から見て、なぜ75%
の人が神頼みをしたいのか理解に苦しみます。そこに
矛盾を感じます。
日本人の無宗教や無信仰というのはあくまでも表向き
のポーズであって、じつのところ大変ご利益に敏感な
性質を持っています。ご利益があるとうわさがでると、
一応お願い、お詣りしておこう、お願いしないよりは
お願いしておいた方が、ひょとしてご利益があるかも
しれないという「計算」がはたらいています。
 このような日本人の宗教観やご利益をいただけるの
ならどの宗教(神仏)でもよいとする精神は、一神教の
キリスト教との相性が悪いのは当然です。
ふつうこの世界各地では、宗教というものは生きる原
理、生き方の指針としての役割りを持っています。
イスラム教、ヒンズー教、アジア仏教、キリスト教など
においては実際の生活、生き方に規制が見られます。
とくに一神教では厳しいものがあります。その点、日本
人はそうした宗教的「縛り」をいやがる傾向があります。
しかし、グローバルな世界観には、こうした宗教的見方
と理解が必要です。日本の外交の弱いところの一つは
世界の宗教の認識が不足しているのもあげられるの
ではないでしょうか。(2015年 7月28日)

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リストマーク「18歳選挙権に思う」
ー民主主義の原点にー

日本も18歳から選挙権が与えられました。これは喜ば
しいことですが、手放しで喜んでばかりにはいきません。
選挙は間接民主主義のカギを握るものだからです。
近代ではフランス革命に端を発し、選挙権を持つ者が
自分の一切の権利を被選挙人に委ねる行為です。フラ
ンスをはじめ欧米では、国民が「市民」(シチズン)として
自立し、しっかりとした自分の考え意見を持っていること
求められます。ですから、自分が選んだ議員がほんとう
に期待通り働いているかを見届けなければなりません。
今の日本は、選挙に関心がなく、だれがやっても同じ
といった無力感、あきらめが支配しています。
今の国会の実情を見ても、議員ははじめはフレッシュに
働きはじめますが、次第に「永田町ムラ」の空気しか
読めず、永田町色にすっかり染まってしまいます。
今の自民党の中には、安倍政権を批判するメディアを
封殺してしまえというおごりが見られます。むしろ、批判
に対して抑えつけるのはなく、謙虚に耳を傾けるべき
です。民主主義はあらゆる批判、言論を抑圧することは
許しません。
いま自民党にファッショ的空気がみなぎりつつあり
ます。これには強い警戒感を持つ必要があります。
また、「一票の格差」問題も、国会は利害がからみ、
まもなく参議院選挙も近づいているにもかかわらず
進みません。これは第三者機関に委ねて客観的
かつ公平にばっさり決めてもらったほうがいいのでは
ないでしょうか。日本の民主主義は、戦後アメリカ
からいただいたもので、フランスのように市民みずから
勝ち取ったものではありませんので、未熟であること
はいたしかたありませんが、もう戦後70年にもなり
ますので、18歳以上の国民は「市民感覚」を磨き
みずからの政治姿勢を選挙行為によって表明し、
議員や政権にたいして物申す強い態度を示すべき
です。 (2015年 7月2日)

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 リストマーク  「日本人の労働観」

いま、残業時間、就労時間、過労死など話題となって
います。ブラック企業もあとを絶ちませんし、一般人
のみならず学生アルバイトにもその弊害が及んで
います。
日本の労働観と西欧の労働観は根本的に違います。
旧約聖書の創世記の初めを読みますと、アダムは神の
禁止を破って「知恵の木の実」を食べたために、その罰
として額に汗して土を耕せと命じられます。ですから、
西欧人は労働は出来れば避けたいものという感覚が
あります。それと、労働のあとには必ず休息をとらなけ
ればならないと考えます。これも神が6日間の創造の
仕事を終えて休まれたとあるからです。
先進国で日本ほど労働時間の長い国はありません。
江戸時代からの労働は美徳だ、、よく働いて金を儲け
よという道徳が刷り込まれています。体を壊すまで働く
ことが善しと考えられています。いま、この考え方を改め
休むことによって、家族との時間、自分の楽しみの時間
を確保し、真に人間らしい生き方を求めなければならな
いと思います。少子化の一つの原因は、夫の深夜まで
の労働、休みの少ないことにあるといわれます。
人間の体のバイオリズムを考えるならば、労働時間と
休息の時間のバランスにもっと関心を払わなければ
肉体的にも精神的にも大きなダメージを」もたらします。
西欧でも北欧3国は、労働、福祉、環境などわたしたち
がそのお手本とすべき国々です。
(2015年 5月19日)
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リストマーク「大学が学生のために朝食用意?」

京都の2,3の大学で朝食抜きでくる学生のために
朝いちばん学食を開いて無料もしくは100円ぐらいで
朝食を提供するというニュースを見ました。朝食抜きの
学生は朝の授業に身が入らないということで、また学生
の健康面を心配しての試みのようです。
大変配慮に富んだことのように見えますがよく考えて
みますとどこかおかしいことに気づきます。
18歳以上にもなって大学が親が子どもにするような
ことをする必要があるのでしょうか。もうすぐ18歳から
選挙権が与えられるということですが、一人前の大人
として自立した市民と見られているのにです。
ある大学では、留年しそうな学生につきっきりで勉強
の面倒を見て卒業させると聞いています“自分の事は
自分で”というのが当たり前ではないでしょうか。
あらゆる面で日本社会は子供に対して過保護、過干渉
で、子どもの自立を妨げている部分が多いのではない
かと憂います。欧米では考えられない日本の大学は
そこまでお世話をする必要があるのでしょうか。
(2015年 4月27日)
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リストマーク「天皇の安倍首相への当てつけか?」

4月8日、天皇夫妻は念願のパラオへの戦没者慰霊の
旅に行きました。今年戦後70年の天皇談話には、さき
の大戦への反省の思いがこめられていました。また
皇太子も今年の誕生日に出した談話にも戦争に
関する同じような反省の内容が込められていました。
天皇はさきの大戦の最中に少年期を過ごし、戦争の悲
惨さをじゅうぶん体験されたことは事実です。
天皇は、父昭和天皇がこの戦争に対して深い悲しみを
抱いていたこをを子としてよく知って,おもんばかって
いたと想像できます。
他方、安倍首相はさきの戦争に対して、中国や韓国を
刺激するような発言や態度を示し、両国との関係は今
なおぎくしゃくしています。
この安倍首相の姿勢に対して、天皇のパラオ慰霊訪問
や戦争に関する談話は、安倍首相への無言の抗議と
わたし自身は受け止めます。戦争の悲惨さや愚かさ
を知らない世代の安倍首相は、戦後70年をもっと深く
検証する努力をしていないかのような印象をわたしは
受けます。
日米安保体制の強化で自衛隊を世界各地に派遣でき
る道を推し進めている安倍首相は、戦後70年が平和
保たれていたことの根源に目を向けなければなりませ
ん。それは憲法9条の故です。
(2015年 4月8日)
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リストマーク「連続ドラマで観る戦争中の日本の息苦しさ」

 
このところのNHKの朝の連続ドラマに共通して描かれているの
は先の第二次世界大戦下の日本の社会状況です。
「カーネーション」、「ごちそうさん」、「花子とアン」、また劇映画
では「少年H」で主人公が戦争中の思想統制、敵国語、文化の
使用禁止で大変いじめられたり、「非国民」、「売国奴」とののし
られたりして、自由に思想表現、創作活動を妨害される場面が
印象に残りました。 戦後69年、まもなく70年を迎えようと
していますが、戦争の体験のない安倍首相は、どんどん
日本を思想統制、軍事優先の政策を進めています。
わたしたち日本人は、北朝鮮の金王朝の独裁政治をニュースや
メディアをとおして観て、なんというひどい国であろうかと憤るの
ですが、かつての日本もあの戦争中はまったく同じ状況であった
ことをわすれてはなりません。全体主義国家の恐ろしさです。
いま、特定秘密保護法、集団的自衛権、ヘイトスピーチ規制法が
考えられていますが、その中に政府への反対デモへの規制も
含めようとしています。ネトウヨ(ネット上の右翼)の嫌中国、
嫌韓国の状況はひどいものです。安倍首相をネットから
支援しており、首相も調子に勇気づけられています。
いまの日本は決して戦前の「国体」には戻らないと安心
していてはなりません。いま、徐々に戻りつつある兆候に目を
光らせて、ドラマで描かれている戦前の息苦しさを二度と味合う
ことのないように、警戒しなければなりません。
(2014年 9月8日)

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リストマーク「映画“ジゴロ in N.Y.”」を観る」

ーニューヨークのユダヤ教の実態を描くー

題名や内容から想像すればいかがわしい映画だと思われますが、
ウエブサイトでの映画評ではまったくだれも触れていない、本編に
流れるユダヤ人社会に、わたしは大変興味をもちました。わたしは
牧師ですので、聖書やユダヤ教の知識を持っていますので、この
映画がユダヤ教の原理主義(コチコチ派)を批判していることが
よくわかりました。
女主人公の名前はアビガイルといい、これは旧約聖書サムエル記
上25章に登場するダメ夫を持つ賢夫人の名前です。夫の急死後
ダビデの妻の一人になります。この主人公は2年前にラビであった
夫を急に失い6人の子どもを抱えて寂しい日々を送っていました。
そこで、主人公ジゴロを紹介され付き合うようになり、ジゴロも彼女
の境遇に同情しお互いに愛し合うようになります。
ニューヨークのユダヤ人社会では、ユダヤ教徒の風紀を取り締
まる私設パトロール隊が存在します。その隊員の一人はアビ
ガイルに恋情を持っており、彼女の行動をチェックして、ついに
「ラビ審問所」に不貞で訴えるのです。ここの重厚なラビたちは
映像で見るイスラム教の聖職者とまったく同じです。
一方この映画では、金持ちでセレブの女性が堂々とお金で
性的パートナーと乱れた性的関係を楽しんでいるのも重要な
場面です。ラビの妻であったアビガイルはユダヤ教の戒律に
悩み、新しい恋愛に罪意識を感じています。もはや、夫はいない
のですから、自由な立場です。しかし、ユダヤ人社会はラビの妻
であった彼女を審判するのです。
俳優ウディ・アレンは随所に、こうしたユダヤ教のコチコチ派を
皮肉っています。わたしも、現代のニューヨークで今なお、原理
主義のユダヤ教が残っていいるのにマイナスの感動をおぼえ
ました。   (2014年 7月15日)

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リストマーク「安倍首相の小児的性格」

今回の憲法解釈の閣議決定への道筋、過程を見ていますと、
安倍首相の性格がよく出ています。思い込んだらまっしぐら、人
の意見にも耳を貸さず、ただただ首相の地位と権力で事を運んで
いる感がします。
これは、まことに小児的性格の典型で、周囲の自分に対する空気
を読まず、ただただ「我」を通す子どものようなものです。つい最近
大きな話題となった、兵庫県議の野々村某とまるでそっくりに見え
ます。まったく説明責任を果たさず、感情によって訴えるばかりで
まったく理解できません。自分の姿が放映されている画像をしっか
り自分の目で見てわたしたちにその感想を述べてほしいものです。
それでも自己弁明するならば人格的に破綻しています。
安倍首相は「反知性主義」と評されました。正しい論理で説得する
のではなく、「美しい日本」、「強い日本」といったフレーズで感情
的に訴えるほうが多い気がします。もっと義論を尽し、民主主義
の手続きをとるべきです。
戦争の「抑止力」としての集団的自衛権を主張しますが、それは
一歩誤れば、戦争につながり、自衛隊の海外派兵につながり、
戦死者も必ず出るでしょう。中韓に対しても、安倍首相は小児的
対応をするから、中韓も子どものケンカのような小児的態度に
出てくるのだと思います。与党自民党の中にいるリベラルな考え
を持っている人も何も言いません。議員にとって選挙と大臣ポスト
が安倍首相に握られているからです。
わたしは戦前の軍部のような支配体制がやってくる危険性を
感じます。戦前のように、国全体が「大政翼賛」状態ににあっと
いう間になるような気がします。わたしたちは、過去の歴史から
しっかり学ばなければなりません。
(2014年  7月8日)



リストマーク「日本のあいまいな宗教観」

昨年12月、安倍首相は靖国神社に公式参拝しました。
英霊に尊崇の念を表すためと言い、多くの批判を受けました。
このことは安倍首相にとって悲願であってぜひともやりたい事
の一つでありました。多くの人々はそれを支持しますが、根本的
に政教分離の原則に違反しています。靖国神社は一つの宗教
法人に過ぎません。総理大臣の名のもとに参拝することは法律
違反です。また、靖国神社は戦没者の宗教を無視して、たとえば
キリスト者の信者であっても有無を言わせず祀るのです。多くの
日本人はこれを信教の自由を侵すことであるとは夢にも思い
ません。キリスト者である私の場合、裁判に訴えても異議を唱
えます。それはわたしの信仰上、許せないことだからです。
日本でよく聞くのは、宗教はつまるところ皆同じだという考えが
あります。山に登る道はいろいろあるが、結局は同じ頂上に
着くというのです。いいかえれば、宗教には境目なんかないと
いうのです。これを「融通無碍の宗教観」ということができます。
この宗教観は、他人の信仰する宗教、また信仰心を尊重しない
という過ちを犯します。基本的人権にはこの信教の自由が謳われ
ていますが、日本人にはなkなか理解できないことです。

安倍首相は、英霊に尊崇の念を捧げるといいますが、英霊たち
からの声は、なぜわたしたちは理不尽なこの戦争で死ななければ
ならなかったのかというものではないでしょうか。安倍首相は
まず、先の戦争であなたがたを殺してしまいましたと、英霊の前で
懺悔の念を表すべきであります。深い罪の懺悔のない宗教が
日本の、一般的宗教の特徴と言ってもいいかと思います。
もし英霊を祀るとするならば、外国のように、無宗教の新しい
施設を造るべきではないでしょうか。一宗教法人の靖国神社
は道理に合わないところです。    (2014年 3月15日)


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画「ハンナ・アーレント」を観た

今、話題の映画を観ました。内容的には堅く、重いものですが、
多くの観客を集め、深く考えさせられたという声が挙がって
います。H、アーレントはドイツのユダヤ人哲学者です。ナチス
によって迫害されアメリカに亡命しました。1960年にナチス親衛隊
長のアイヒマンがイスラエルのモサドに捕らえられ、エルサレムで
裁判が行われるとのニュースを聞いて傍聴することを決意しま
した。
彼女は裁判のやり取りを聞いて、アイヒマンがただ命令し従って
自分の任務を果たしたのであると繰り返し供述していることに
注目しました。彼は、上からの命令に、またナチスの規則に従
って遂行したのであって、自分のやっていることに何の善い
悪いを考えたことがないことに彼女は気づいたのでした。その
傍聴記が新聞に掲載されますと、ユダヤ人から痛烈な非難が
殺到しました。ユダヤ人でありながらアイヒマンを、またナチス
を擁護しているとの偏見でした。彼女がユダヤ人でなければ
これほど非難の的にはならなかったでしょう。彼女はまた、
ナチスに協力した大哲学者ハイデッガーの愛弟子であった
ことも大きく影響しているのでした。
しかし彼女の偉大なところは、ユダヤ人のナチスに対する憎悪
の感情的なものに支配されず、理性的に人間の奥に潜む「悪」
に気づいたのでした。この映画の最後の部分でハンナが満場の
聴衆の前で演説(所信表明)するところは感動的です。人間は
「平凡な人間でも知らず知らずに悪を行う危険性を持っている」
ということです。すなわち「凡庸の悪」です。ハイデッガーは
彼女に「考えること(Denken)」を繰り返し教えたのでした。思考
すること、すなわち、自分の頭の中で善いことか悪いことかを
常に考え、行動に移すことがいかに大切なことであるかを知ら
なければならないということです。
ひるがえって、いま、安倍政権は自民党、公明党の連立与党の
力で、戦前と同じような「国体」を取り戻そうとさまざまな法案を
強行採決しています。この危険な状況の中で、アベノミクスの
景気回復という夢に惑わされて、日本国民が「凡庸の悪」と
いう愚を犯しかねない状況です。平凡な国民、目の前の景気に
惑わされて、知らず知らずに政権の悪に加担していることに目覚め
なければなりません。この映画を観て、政治状況に流されず、
政治の深層に目を注ぎ、発言する大切さを教えられました。
日本が戦前、軍国主義にあっという間に洗脳されたことを忘れ
てはなりません。  (2013年 12月13日)


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リストマーク「映画「『少年H』を観た、感動した!」

約7年前、妹尾河童著「少年H]は200万部のベストセラーで話題
になりました。紆余曲折をへてようやく映画化されました。妹尾家は
クリスチャンホームです。それを前面に出しての映画化です。果た
して心配を吹き飛ばして、宗教が、信仰が嫌味なく淡々と描かれ
ています。監督はもちろんのこと、脚本がよくできています。
「神戸ナザレン教会」という看板が出ている「家の教会」が映し出
され、集会の様子も見ることができます。古いナザレン信徒には
懐かしい名前ミセスステープル先生が登場します。Hの母の熱心な
信仰ぶりが堂々と描かれています。また、Hの家の中には「常に
喜び、絶えず祈れ、すべてのことに感謝せよ」、「義人は信仰に
よって生くべし」などの聖句がべたべたと貼ってあり、映画を
見ている人の目に入ってきます。
父盛夫はテイラーですので、神戸の多くの外国人の洋服の注文を
受けて、邸宅にうかがいます。それに目をつけられ「特高」から
スパイの嫌疑をかけられ指を痛めつけられるという拷問を受け
ます。そしてこの映画の圧巻は神戸空襲のすざましい描写です。
東京空襲はこれよりももっとひどかったと聞いています。数十万
死傷者がでました。ここまで戦争を長引かした当時の軍国政府
に激しい憤りをおぼえます。この映画は戦争の愚かしさを徹底し
て訴えています。その他、共産主義者と見られた青年の連行、
女形役者の召集直後の自殺など戦時中にあったと思われる
エピソードも挟まれています。私たちキリスト者にほんとうに
感動を与えた映画です。この映画の製作者、監督、脚本家に
敬意をささげます。(2013年 8月25日)


リストマーク「人生の果てしない目標」

4月は大学をはじめ、各学校の入学式で華やかな喜びに満ちた
風景がテレビ、新聞で報じられています。みんな希望と期待に
胸ふくらませてにこやかで、ほほえましく思います。しかし、人生は
長く、山あり谷ありであることを忘れてはなりません。一流大学
に入ったから、一流有名企業に入社したからそれで安心とはいき
ません。入学、入社はまだ第一歩にすぎません。いつも、試練があ
り、それを乗り越え、また新しいことに挑戦しつづけなければなり
ません。ロバート君は、ハーバード大学に入学したことを教会の
牧師に報告しました。                          
 それはおめでとう。ところでロバート君、その後の人生はどう送る
つもりかね。はい、理想の女性と結婚して、幸せな家庭を築き
ます。ほう、それから・・・。はい、定年退職して、余生を楽しむ
つもりです。 牧師は彼に、それからどうするのか、それから
どうするのかと次々たたみかけるように質問を続けてきました。
もうロバート君はどう答えていいのかわからなくなり、黙って
しましました。牧師は、きみの目標は小さいと言いました。
ほんとうの人生の目標は、神さまに喜ばれることを求めて、神と
人とに仕えることを目標にすることだよ、と。 たとえ、全世界を
儲けても、ノーベル賞をとっても、神さまから“それがどうした”
と言われたら、どう返答すればいいのかわかりません。この言葉
“それが、どうした”という言葉に耐えられる人生を目標として
生きたいものです。  (2013年 4月12日)


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リストマーク品格ある「日本」への条件を考え

いまの日本は戦後の「闇市」の混乱状態を思わせるみみっちい事件が頻発しています。銅、アルミを泥棒する、農家が丹精こめて作った米、さくらんぼ、りんご、ぶどうといった果実を夜のうちに盗むなど卑怯な犯罪が増え、日本人の心がほんとうに貧しくなってしまっています。
 そこで、日本の国の品格を落としている社会的「罪」をここに挙げ、みなさんと一緒に考えてみたいと思います。
インドのマハトマ、カンジーのことばを引用します。

☆国における7つの社会的罪とは・・・。
1.理念なき政治(Politics without Principles)
 利益ばかりを追求し、現状に流され社会的理想を掲げることと、それを 実現しようと努力しない政治。
2.労働なき富の追求(Wealth without Work)
 堀江貴文氏の事件に見られる、ITベンチャー企業の犯罪。かつてのバブルのような経済活動。
3.良心なき快楽(Pleasure without Concience)
 毎日のように新聞、テレビで社会的地位や立場にある人が性的犯罪、セクハラ行為で捕まっているのはいったいどのような神経なのか理解 苦しむ。性的激情に抗しきれないのはなぜか。
4.人格なき学識(Knowlege without Character)
 高学歴のひとがそれに比例して、人格も立派かといえば、そうではない。小学生のときから塾通いで、知的には訓練を受けるが、人格的、宗教的なことを教えられず、知的レベルと人格的レベルがアンバランスである。
5.道徳なき商業(Commerce without Morality)
 欠陥商品を平気で販売する会社。アンチ健康で、有害なものを健康食品だと偽って売る会社などまったくモラルなき商売が目に余る。
6.人間性なき科学(Science without Humanity)
 科学の進歩は驚異的スピードで先に進むが、人間が実験台になり、人間に苦痛や不幸、悲劇をもたらしている。科学の非人間性の恐ろしさを現代は味わっている。
7.献身(犠牲)なき信仰(Worship without Sacrifice)
 これはわたしたちキリスト者にとって耳の痛いことばである。イエス・キリストに従うものは、キリストの十字架を共に担うものでなければならないのに、自分の利益、幸福を優先していることを反省させられる。

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リストマーク「映画”エンデイングノート”を見て」

ひと言で言えば大変奇抜な映画です。映画監督はこの映画の主人
公の次女です。67歳で退職した砂田知昭さんにがんがみつかりま
した。彼は自分の死に備えて準備をします。四谷のカトリック教会
に飛び込み信者になって葬式をお願いします。次女がカトリック信
者だったからです。
それからパソコンに死んだときの「段取り」をきめ細かく残します。
また、94歳の母と家族で伊勢志摩に最後の旅行も楽しみます。
圧巻は、死の床5日間の家族との濃密なお別れの会話です。
妻、3人の子どもたち孫たちに囲まれほんとうに今まで生きてきた
ことを満足と感謝を言い伝えました。観客からすすり泣きがもれて
きました。この映画は父親を冷静に見つめたドキュメンタリーで
感激しました。一人ひとりが砂田さんのように自分の死に備えて
準備をする強い意志と勇気を持つべきだと思いました。ぜひ観る
機会をつくって観てください。   (2012年 2月10日)



リストマーク「立川談志に思う」

「だんしがしんだ」とスポーツ紙第一面に大きく報じられました。昭
和の天才落語家の死を多くの文化人が惜しみました。わたしは落語が好きでよく聞きます。談志の話術、間、独特の手や体の所作
はすばらしいと認め、評価します。しかし、わたしが残念に思う
ところは、あまりにも「我」が前に出すぎることです。人間国宝の
指定を受けた柳家小さんや桂米朝は「我」がうしろに退き、芸
そのものが前ににじみ出て味わいぶかいものがあります。
他方、「作家」は韜晦(とうかい)さを売りにする傾向があります。
韜晦とは自分の才能や誇るべきところをつつみ隠すという意味で
す。北 杜夫と遠藤周作は相手の韜晦さをお互いに挙げつらって
いました。そこにわたしは、お二人のユーモアを感じほほえましく
受けとめました。
わたしが談志を認めつつも、うっとうしい感じを受けるところがそこ
にあるのです。もちろん談志が大好きなファンは談志の向こう意気
がたまらないのはよくわかります。しかしわたしは、死の数年前の
テレビのドキュメンタリーを見て、彼のツッパリ人生に痛々しさを
感じました。(2011年11月27日)



リストマーク「神はおられるのか?!」


わたしたちは大きな不幸にあったり、思いがけない災難に会った時
「神はいるのか?」叫ぶのではないでしょうか。今回の大震災や豪
雨による土砂大災害で多くの命が奪われ財産も失いました。
神なんかいない、と叫びたくなるのは当然だと思います。しかし、
よく考えてみてください。わたしたちは、幸福な時「神はいない」と
叫ぶでしょうか?想定外の不幸に会った時だけそう叫ぶのは
身勝手だと神さまから叱られるのではないでしょうか。旧約聖書の
人物ヨブは「わたしは神さまから多くの恵みをいただいたのだから
災いに会うことも受け入れます。神の御名はほむべきかな」と
信仰を堅く保ちました。
聖書の神は、旧約では、「怒りの神、さばきの神」として、新約聖書
では、御子イエスをとおして「救いの神、赦しの神」として現されて
います。神さまは人間とはちがい、つねに真実です。

大災害の後、原発のさまざまないいかげんな東電の原発
安全広告、設置する町への札束攻撃など、人命にたいする軽視が
明らかになりました。これも多くの部分が人災であることがはっきり
しました。わたしはこれを神のさばきと受けとめます。わたしたちの
罪が暴露されたという意味でです。これを教訓にますます神さまに
対して誠実、正直、謙虚にすべてのことをおこなわなければならな
いと肝に命じましょう。(2011年10月17日)



リストマーク「スピリチュアルブームの危うさ」

この数年、スピリチュアルという言葉がはんらんしています。多くの
人々は神や仏を信じないと「無宗教」を広言していますが、やはり
心に不安を感じることが多いようです。神仏を頼らないかわりに「癒
しスポット」を訪ね歩いたり、ウエヴ(WEB)上での占いサイトや
ヒーリングサイトがよく利用されているようです。
むかしは超能力、オカルトという言葉が使われていましたが、胡散
臭いイメージをあたえたので、いまはスピリチュアルと言い換えられ
おしゃれで洗練されたイメージとなりました。そのほか、セラピー、
風水、気功、ヨガなどもそのたぐいのものとして人気があります。

このようなものが流行するのは、漠然とした社会不安や生活上の
ストレスではないでしょうか。また、新聞、雑誌の広告の半分以上
を占める健康関連サプリメントや健康グッズではないでしょうか。
キリスト教の牧師として思うことは、ほんとうの信仰とは、この世の
ニセモノとホンモノを見分ける目を持つことであるということです。
わたしたちはてっとりばやく、一時的な、表面的な癒しや安心を
求めやすい傾向があります。しかし、スピリチュアルブームに
翻弄されて、かえって思うようにはいかない不満にさらにその
危うさのワナの深みにハマラないように気をつけなければ
なりません。(2011年 8月15日)



リストマーク「誤解される親鸞の『悪人正機』説」

今京都では、法然800年、親鸞750年大遠忌が盛大に行なわれて
います。「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」は有名な親鸞
の言葉です。鎌倉時代の末法思想のなか、庶民、卑賎の民と呼ば
れる仏教の救いの埒外におかれていた人々にとっては、福音でし
た。ただ南無阿弥陀仏と唱えれば浄土に往生できることは安心を
得る喜びにちがいありません。
しかし、この救いの教理は、自分の犯した悪や罪過を真剣に反省
あるいは悔い改めるという部分をいい加減にする傾向に進んで
しまいました。決して親鸞はそんな風には説いてはいませんが、
民衆は深い聖人の教理を理解できませんでした。ただ念仏だけを
唱えれば救われると安易にとらえたのでした。ですから、倫理的
行為を生み出す力を持つことができません。
キリスト教は、「信仰」と「倫理」とが深くむすびついています。
イエス・キリストは、阿弥陀仏とはちがい歴史に登場し、十字架に
おいて殺されました。弟子たちはそれを目撃し証言しました。その
証言の書が聖書(福音書)です。弟子たちはキリストを裏切った罪
にさいなまれました。そしてキリストの十字架の死を自分たちの罪
のあがない(救い)と信じたのです。そこからキリストに従う力、
すなわち、キリストの愛のわざ(倫理)が生じたのです。ここに
キリストのリアリティがあるのです。またキリスト教の信仰の
力強さがあるのです。(2011年 5月2日)



リストマーク「原子力はパンドラの箱か」

「大震災」から1か月が過ぎました。大地震や津波の後始末は時間
をかければ元のように復旧できますが、原子力発電所崩壊後の
放射能ならびに放射性物質の汚染と拡散は、つかみどころのない
妖怪のような不気味なもので、世界各国も地球規模の汚染と影響
を恐れています。原子力のもととなるウランやプルトニュウムを
人間が手に入れたとき人類は大きなエネルギー作り出す科学
技術を発展させました。制御することができると過信しました。
しかし、過去にも原発事故を経験してもなんの学習にもなって
いないことが証明されました。たしかに「想定外」というものは
起こります。そこに科学技術の過信、傲慢を見ます。
原子力というパンドラの箱が開いたとき災いが拡散したのです。
また、パンドラの箱にはギリシャ語のエルピス「期待」「希望」
という意味があると聞いています。それは、原子力を利用する
人間の側にかかっているのではないでしょうか。他にも「生殖に
係わる生命工学」、「地球環境、温暖化問題」など人間のいのち
係わる「生命倫理」が、人間の手によって生み出された科学技術
に鋭く問われています。人間を実験台にし、不幸にする科学技術
ではなく、幸福をもたらすものとならなければなりません。今、
明らかになったことは、「科学技術だけでは答えの出せない問題」
が山積しているということです。「倫理」、「哲学」「宗教」といった
人間の根源に迫る思想が求められます。
(2011年 4月18日)

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リストマーク「傍観者の立場と当事者の立場の深い溝」

今回の「東日本大震災」の惨状は目を覆うばかりの想像を絶する
ものです。テレビの画面はすべて連日この映像を流し続けました。
「気の毒に」、「かわいそうに」、「何ができますか」とテレビを見て
いるわたしたちは、偽りなく心からそう思っています。テレビ局の
アナウンサーやコメンテーターも同じ気持ちだと思いますが、
どうしても傍観者の立場に見えます。
今、私は旧約聖書のヨブ記を取り上げて説教をしていますが、
塗炭の苦しみの中にいるヨブと、見舞いに来た3人の友人との
やりとりの中に同じことを見ています。3人の友人たちはヨブを
慰め、因果応報の法則をもちいてなんとか納得させようとします。
しかし、苦痛の最悪の渦中にあるヨブは、彼らの慰めの言葉や
納得させようとする立場との埋めることのできない深い溝を強く
感じます。これは「非当事者と当事者」との断絶といってもいい。
この深い溝を埋める方法はなかなか見つからない。まずこのことを
よく理解しておかなければならない。そして、相手の言うことに
ひたすら耳を傾け、聞くよりほかはない。そして寄り添うよりほかは
ない。そうでないと非当事者は、所詮は傍観者だと、当事者から
思われることでしょう。この問題はたいへんむつかしいテーマです。
(2011年3月15日)


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リストマーク「シェアハウス、コレクティブハウスの出現現象を見る」

先日、NHKのテレビでこのテーマでの興味深い放送を見ました。
現代は「個別化」「アトム化」「カプセル化」の時代ですが、とうとう
行きつくところまで来たところで他人同士が共同の生活を志向する
ところまで来ました。
戦後の日本の高度成長期には、全国の地方から若者を中心に
多くの人たちが大都会へと流入しました。そして都市で核家族を
形成しました。その結果、三世代の家族の縁、ムラ共同体は薄く
なってしまいました。そこで「孤独死」「無縁死」という社会現象が
出現するようになりました。その現象に対してのこれは血縁家族を超えた新しいライフスタイルです。
「シェアする」というのは大変宗教的な意味を持っています。
たがいに分け合う、補い合うことは利己的な思いを捨てなけ
ればなりません。得をしようとか、利便を得ようという動機から
ではこのシステムは機能しません。「ギブアンドテイク」で言えば
最初にギブ(与える)が来なければ成り立ちません。テイク(獲る)
が先行すれば崩壊してしまいます。大変むつかしい運営が要求
されます。実際、住人たちは率直に討論、協議を重ね、最大多数
の最大幸福の道を模索しています。お互いがどこまで自分を犠牲
にしてこの態勢を維持しつづけることができるかの試行錯誤を続け
ていかなければならことでしょう。かれらの成功を祈るばかりです。
(2010年 11月11日)

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リストマーク「外国人力士に国技が守られた」

話題の多かった大相撲名古屋場所が終わりました。全勝優勝した
白鵬の涙は相撲協会理事会への抗議とわたしは受け止めました。
幕内の対戦はほとんど外国人力士同士でした。琴欧州と杷瑠都の
大きい白人同士の対戦はいまの日本相撲界の現状を象徴してい
る場面に見えました。
わたしたち日本人社会が倫理的「たが」がゆるみきってぐちゃぐち
ゃになっていることを反省しなければなりません。外国人力士たち
には大きな迷惑をかけたからです。
学校の教師、警察官、公務員など一般の職業人以上の倫理感が
求められる人たちの性犯罪などが増えています。これは由々しき
問題です。日本人の美徳である『謙譲」、『質素」、『礼儀正しい」
などがいま求められているのではないでしょうか。外国人力士に
対して模範となるような日本人親方、日本人力士になってもらい
たいものです。 <2010年 7月26日>

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リストマーク「ことばでコミュニケーションする能力

ある塾の講師が投書している文章を紹介しよう。小二の児童が「筆
箱が見つかりません」と訴えてきた。筆箱のことを言っているのかと
思っていると、実は、その児童が言いたいことは「筆箱がみつから
ないから鉛筆と消しゴムを貸してほしい」ということであった。それ
ならば最初からなにがほしいのか言おうねと諭したとのことである。
また、子どものなかには「のどが渇きました」とだけ言ってじっと待っ
ている子もいるようである。おとなが「水が飲みたいのか」と言うと
「はい」と言う。子どものなかには、相手が察してくれて、自分の
求めに応えてくれるのをじっと待つ子もよく見られる。

日本の文化のなかにはストレートにものを言うことが不作法である
と信じている部分がいまだに残っているようである。これは日本人
同士のあいだでは通用するが、外国人との交渉やコミュニケーショ
ンでは通用しない。外国人がよく言うのは、日本人は何が言いたい
のか、何を求めているのかよくわからないということである。
日本人はもともと自分の言うことを、相手に察してもらうことを期待
する傾向がある。グローバルな時代、そのようなコミュニケーション
方法は時代おくれである。はっきり、的確に自分の意思を「ことば」
で伝えるようコミュニケーション力をみがかなければならない。
(2010年 7月23日)

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リストマーク「ジョークーーいま、胎児が悩んでいること?!

最新の調査によると、アメリカでは母親のお腹にいる胎児がいくつ
かの悩みを持っていることがわかった。

*ひとつ、ちゃんと産んでくれるかどうか。(中絶が多い)

*ふたつ、両親はきちんと結婚するだろうか(未婚の母が多い)

*みっつ、だれが育ててくれるのやら(養子にだされるかも)

*よっつ、何人の親ができるのか(離婚、再婚を繰り返す)

最近、悩みがもう一つ増えた。それは、ここが本当の母親の
お腹(胎)かどうかである(最近、代理母も増えてきた)

この胎児の悩みは、現代社会の現況をよく反映している鋭い
ジョークである。(2010年 6月7日))

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リストマーク「輿論(よろん)と世論(せろん)」

鳩山首相は退陣を表明しました。もうどうにもならない窮地に追い
込まれたこともその原因ですが、内閣支持率の最低にも考慮した
ことも大いにあったことと思われます。今、盛んに世論調査がされ
て、内閣の不支持が週間ごとに紙上やテレビで報道されます。
しかし、どれほど正確に「民意」を反映しているかは注意して
見なければなりません。
京都大学の社会学者佐藤卓巳氏は「輿論」と「世論」を区別して
います。いわゆる世論は民衆の「気分」をあらわしているのに
対して、輿論は対話可能な「意見」、見識であるべきであると
言っています。現代はマスコミが意識下において国民の世論
を誘導しています。
しかし、民主党政権に代わってから、人々の政治に対する意識が
強くなってきました。街頭インタビューを聞いていてもしっかりした
意見が述べられるようになりました。しかし、政治家は一般受け
することばかりに走るのではなく、国家の将来と確固とした安全と
繁栄の長期的ヴィジョンを粘り強く国民に語り、理解してもらう
努力をしてほしいものです。先のマスコミに煽られた「小泉郵政
選挙」のような軽佻浮薄な世論の嵐は二度と起こってほしく
ありません。
*注)むかしは、輿論と書きましたが、現在は、世論と書い
て、「よろん」とも「せろん」とも読むことができます。

最近の狂歌から、「世論とは、初物好きの浮気者」
(2010年 6月3日)

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リストマーク「ツイッターの流行に落とし穴がある」

140字でつぶやくようにフォローしたり反論したりするツイッターが
今流行しています。短い文でパンチのあることを言おうとすると
どうしても強い、キツイ文章になってしまいます。つまり、結論だけ
が述べられそこにいたるまでの論理的説明が省かれてしまい
ます。そのため、論理よりも,感情が突出してしまうきらいがみられます。
今盛んに鳩山政権についての世論調査ひんぱんにされて、ますま
す支持率は下がってきています。それはマスコミが「ワイドショウ」
番組でおもしろおかしく取りあげるだけで,ほんとうの問題の核心
をぼやかし、伝えようとしていないからです。ですから世論調査
はフワフワした国民の思いの上澄みをすくっているのにすぎない
のです。中島岳志氏は、「国民のつぶやきの断片が支配して
論理的思考を奪い、落ち着き(冷静さ)をうしなっている」と
言っています。いいかえれば、すぐに感情の火が点き燃え上がり
また、バッシングに走る構図が見られます。「死ね!」とか「失せろ!」、「バカヤロウ!」といった文字が踊ります。いま、直感的
な物言いが飛び交いますが、それは大変危険な社会的状況
だと憂います。マスコミの世論操作に嵌まることなく、冷静な判断
が求められます。そのためにも、情報を鵜呑みにしてはなりませ
ん。自分の感情に支配されないように気をつけましょう。
(2010年 5月3日)

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リストマーク「政治家の説得力には感心する」

鳩山内閣でその存在感を示
しているのは、当の鳩山氏ではなく亀井静香氏である。まわりから彼の主張が叩かれようがテレビに出て堂々と持論を展開し、まわりの質問者に有無を言わせず説得するのは実に見事である。先日も元首相の森喜朗氏がテレビに出て話していたが、疑問を投げかけられても堂々と答え反論するのに感心した。
『説得」とは、persuasionで「自分の信じているところを相手に信
じさせること」を意味します。元来この言葉は宗教的で、自分の信仰を相手に押し付けるという意味合いがある。布教、折伏がそれにあたる。政治家に話しを戻せば黒を白に言いふくめる話術を持たなければ一人前とは言えないであろう。
ひるがえって、キリスト教の牧師である自分はなんと未熟であろうかと恥いるばかりである。聖書の真理を説教しても迫力はないし、相手を納得させる力もない。自分の信じているところを相手にしっかり伝え、信じさせる力を持つためにはどうすればよいのだろうかとつくづく思わされる。まだ信じる強さが足りないのだろうか。説得力の重要さを認識させられた。(2010年 4月13日)
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リストマーク「キリスト教と自然(環境問題)」


昨年、民主党の小沢幹事長が高野山で「キリスト教は独善的で排他的だ」という発言をしていましたが、正直、一般的にそういう印象をキリスト教がもたれているような感じがいたします。梅原猛氏も「キリスト教は神が人間に自然を治めよ、支配せよといわれた」と指摘し、キリスト教(欧米社会)は人間中心だと言明しています。そういう言葉が創世記に確かにありますけれども、正確にはその意味は「自然を管理せよ、お前たち人間に委任する」という意味で使われているのであって、好きなように使えという意味ではないのです。

キリスト教の根本は唯神教で一人の神という考え方ですけれども、それは創造主である神です。神によって自然もわたしたち人間もつくられた。だから決して私たちは神ではなくて、つくられたもの、被造物であるという根本的考え方を持っております。ですから人間がここまで堕落したのは、やはり神の意思(わたしたちは御心といいますが)から離れて自分勝手な欲望中心の生き方に落ちてしまった。それを「罪に落ちた」と表現しています。ですから、やはり私たちは神様によってつくられ、また神様によって自然を管理する、まず神を畏れよということです。私たちが神様を畏れるということが大前提であって、自分が神様になってはいけない、自分が全知全能になってはいけない。そういう戒めをキリスト教は持っています。

これも昨年、NHKの「爆笑問題のニッポンの教養」という番組で「ドストエフスキーより愛をこめて」という対談番組がありましたが、亀山郁夫東京外大学長との話の中で非常に印象に残ったのは、秋葉原の無差別殺傷事件も取り上げられていましたけれども、現在は人間がゲームの中で、何でもできる、支配できる、ゲームでは自分が全能者、支配者であるという錯覚に陥り、そして人とのつながりが希薄になっていく(ゲーム的人間、ヴァーチャル人間化)。そのように分析されていましたけれども、容疑者はああいう事件を起こすことによって社会との絆を持とうとする、おれがここに居るんだという存在感を持ちたがっている。それは非常に逆説的な言い方で、絆や関わりが無いから反ってあのような事件を通して社会との関わりを持とうとする、そのような逆説的な分析をされていましたけれども、わたしもそうだと思います。

そして最後にロシヤのドストエフスキーは「罪と罰」で、人間はあらゆる恐ろしい罪を犯すことができる可能性を持っているということを表現しようとした。そして最後には救いを緑の大地を求めている。ロシヤの緑の大地を求めている。「大地にキスをする」という表現をしておられましたけれども、やはり緑の大地というイメージを持っていかなければならない。それが人間を回復する道であるということをおっしゃっておられました。すなわち、人間を包む自然に帰るということでしょう。

 また私はこれからの時代は想像力の時代であると思います。想像力が貧弱であるので、もっと豊かにしなければならない。「環境倫理学」では次の世代のことを考えに入れていくということが「環境倫理学」の中心であるということを学びましたけれども、次の世代のことを想像する、そうした想像力を今の人間はもっともっとお互いに持たなければ地球は保全されないと思っております
(2010年 2月22日)


リストマーク「日本相撲協会は本場所優勝力士の国籍の国歌を
演奏、斉唱すべきである」


朝青龍が引退した(させられた)。わたしは彼自身はスポーツマンと
してずばぬけた闘志と強さを持っている青年として好意を持っています。しかし、最後まで日本の国技としての伝統と神事と美学が理解できなかったのだと思います。それはすべて彼の責任と責めることはできません。親方をはじめ「相撲協会」を強く責めるべきだと思います。
日本の国技であるのに幕内の三分の一以上が外国人、とくに
三役以上はほとんんどがそうです。そこで、優勝セレモニーの時「君が代」が斉唱されますが、そこで優勝力士の国の国歌を斉唱したらどうでしょうか。モンゴル国歌、ロシア国歌、ブルガリヤ国歌、
エストニア国歌、ウクライナ国歌などオリンピックのように。しかし、このわたしの提案はあくまでも「冗談」ですが、これほどのことをしなければ日本相撲協会は、いまの相撲界の深刻な問題に目がさめないのではないかと思うのです。有為な横綱朝青龍を引退に追い込んだ愚行の深刻さを理解できないのではないでしょうか。朝青龍なきあと、相撲人気の衰退の大きさを「相撲協会」は、いまに味わうことになるでしょう。
(2010年 2月5日)

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リストマーク「金日成はクリスチャンホームに育った」

 昨年12月に発刊された「はじめての宗教論・右巻」佐藤 優著(NHK出版)を買い求め最初の部分で興味深い話題に出会いましたので紹介します。第一章に「宗教と政治ー神話はいかに作られる
のか?」に、いまの金正日の父、金日成がいかに「チュチュ思想」
を得たのかが述べられています。当時、平城はキリスト教が盛ん
でした。金日成の両親はプロテスタント(長老派)の信者で彼も
日曜学校に通っていました。彼が首領になって「不出世の偉人」
という彼のカリスマを称える偉人伝が出版されました。
まず、貧しいわらぶき小屋で生まれたとあります。そして、小学生
の時その聡明さと勇気は人々を驚かせたといったことが書かれています。佐藤氏は馬小屋で生まれたイエス、幼子イエスの宮での聡明さと重ね合わされていることを指摘しています。
ご存知のように、北朝鮮は金日成父子を救世主とする擬似宗教
国家です。金日成はうまくキリスト教の論理を使いながらナショナリ
ズムに訴えて国民を誘導してきたと佐藤氏は述べています。
世界や日本の中にも「無神論」を唱える国や人がいますが、
それは「無神論的宗教」というワナに陥る危険性が多分にある
ということです。宗教をばかにする人も気づかないうちに自分のうち
の一つの宗教を作り上げていることに気づいていないのです。
じつは、人間は本来宗教的存在なのです。 
(2010年 1月9日)

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リストマーク    「グッドニュースとバッドニュース」

 2009年の最大のニュースの一つは、民主党政権に代わったことです。いろいろ公約では国民を喜ばすことを掲げて、支持を得ました。高速道路の無料化、子ども手当支給、高校の授業料無料化など枚挙にいとまがありません。これをグッドニュースとして諸手を挙げて喜んで受け入れてはなりません。アメリカのある教授から、グッドニュースを聞いた時は、必ずその裏にあるバッドニュースを捜しなさいと言われたことを思い出します。
 儲かる話しも、良い縁談の話も、何事につけ相手はいい話ししか持ってきません。人はすぐそのグッドニュース(餌)に食いついて結局のところ、落胆することが多いのではないでしょうか。世の中、 100%良い話はありません。バッドニュースが隠されています。
 その人がほんとうに賢い人がどうかは、グッドニュースとバッドニュースの両方を見透おすことができ、そして両方をはかりにかけて選び取ることができるかによって決まります。
 いまクリスマスのシーズンで世の中大騒ぎです。じつは、クリスマスというのは、神さまからのわたしたちへの最大のグッドニュースです。えっ! そのグッドニュースにはバッドニュースが隠されているのではにか? と疑いを持つ人がおられますか・・・。
 このグッドニュースは「福音」といって正真正銘の良い話です。そうでないかどうかは、近くのクリスチャンに尋ねてみてください。世界中で何億人という人たちが、神さまの恵みと祝福のうちに生かされている事実に、どうか注目してください。このグッドニュースは、
イエス・キリストが責任持って保証してくださいますから。 
      (2009年 12月17日)

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リストマーク      「希望のあるところ」


 
今の日本においてなにがいちばん欠けているかといえば、お金やモノではありません。それは「希望」ではないかと思うのです。子どもたちが胸を張って「ぼくにはこんな希望があります」「わたしはこんなことしたいのです」という言う姿をほとんど見ることはありません。今の自分の家庭状況や世の中の仕組みを見据えて、将来の希望を言えない環境に置かれているからです。むしろ開発途上国の子どもの方がいきいきと自分の夢を語ります。それはこの貧しさや困難の中から脱出したいという強い動機があるからです。わたしは思います。人間はむしろ困難や試練におかれるとき、それに打ち勝とうという勇気が内から出てくるのではないでしょうか。人は何故、高い山に登るのでしょうか。何故、冒険に挑戦するのでしょうか。それは、いまの自分ではない新しい自分を創り出したい欲求があるからです。しかし、そういった人は強い人で、だれもかれもそのようなことはできないと言う人がいるかもしれません。
 使徒パウロは、わたしはキリストの恵みをいただいて、どんな環境の中に置かれても失望、落胆しないと言っています。わたしたち弱い、挫折しやすい者ですが、キリストを信じて、キリストに祈り、力をいただければパウロのような信仰的生き方ができます。
 パウロは言います「そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。それだけではなく、艱難をも喜んでいる。艱難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出すことを知っているからである。そして、希望は失望に終わることはない。なぜなら、わたしたちに賜っている聖霊によって、神の愛が注がれているからである」(ローマ人への手紙 5章2〜5節)
 わたしたちは孤独ではない。キリストをとおして神の愛がこのわたしにも、あの人にも注がれている。そこにキリストの連帯があり、祈りの共同体が出現するのです。希望は人と人とがつながっているところにあるのではないでしょうか。キリストの教会がその「場」として存在しています。
       (2009年 9月28日)

    

 

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リストマーク
         
「絆(きずな)」喪失の時代」

 つい最近、、パチンコ店に放火して4人と多くの負傷者を出した事件が社会を震撼させました。普通のまじめな人と周囲から見られていた人でした。秋葉原の無差別通り魔事件をはじめ、検索すると多くの無差別殺人事件がいままでに起こっています。
 犯人の心の深いところの「居場所」を失った、他の人間との関係がまったく切れた「孤独」が自暴自棄の恐ろしい犯罪の引き金となったように思えます。
 ホームレスという言葉は、じつは、ハウスレスというほうが正しいのではないかと思うのです。つまり住む「家」がないのです。逆に、ホームレスとは、住む家があっても「家庭」がない、つまり家族の絆(relationship)が喪失状態にあるといえるのではないでしょうか。無差別殺人者はいうまでも無く、いろいろな殺人事件を犯す中学生、高校生、若者の多くは「家はあるし、家族はいる。しかし、居場所が無い、愛されているとは思えない、淋しい」という精神状態から、自分でも制御できない殺意をたぎらせて事件を起こしているように思えます。 いま、殺人事件の50%以上が、家族、親族間で起こっているとの統計があります。まさにホームレス(家族の絆-relationship-喪失)とはこのことを意味しているのではないでしょうか。他方、社会も他人に対して無関心、やさしい「まなざし」がありません。いじめ、シカトとはそのことです。またある人は「空気が薄い」という表現をします。人と人との関係の中で愛情であれ関心であれ、また良い意味での干渉も希薄になっているということです。
いま、もう一度「家庭」の絆、愛のつながりが回復されなければ、ますます社会は希望の無い暗いものになるのではないか、家庭がモノやカネといったもののつながりから、愛、おもいやり、やさしさを取り戻さなければならないと思うこと痛切です。
余談ながら、今の若い漫才コンビの中には、中高生の時から一緒に漫才をしてきたというのが多く見られますが、売れない時代からずっとがんばってきた強い絆で結ばれていることをうかがい知り、他人同士ながらでも、こうした生き方があるのだと感心させられます。(2009年7月13日)

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 リストマーク    「アンチ・エイジングとウィズ・エイジング」

 
いま、「アンチ・エイジング」という言葉をよく耳にします。老化に抵抗するためにいろいろなことをして、若さを保つことを意味するようです。新聞にも、”60歳でもこんな若さ、信じられますか?”といった広告をよく見ます。ある人たちは、必死になって化粧品や栄養食品を使い、あるいは、医学的な施療を受けます。そして、若さを保っていることを自慢げにしているのは、少し行き過ぎの感がします。だれでも年をとる、老化を受け入れることはイヤです。しかし、肩ひじ張って抵抗することがよいとは思えません。
 「ウィズ・エイジング」(with-aging)という言葉を見つけました。老化とすなおに自然に向き合うという意味です。実際は、アンチ・エイジングよりははるかに難しいと思います。「美しく年をとる」、「すてきなおじいさん、おばあさん」と呼ばれるには、相当、よい生き方を心がけてこなければそうはいきません。白髪に、顔のシワにその人の人生があらわれているならばうらやましい限りです。いま、表面的、うわべだけのアンチ・エイジングに走らないで、自分なりの老化の姿をひとつの「個性」として持てるように、ウィズ・エイジングの生き方を実践していきたいと願っています。
(2009年 6月3日)
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リストマーク        
「映画”グラン・トリノ”を観て」

 今話題の映画「グラン・トリノ」を観ました。監督、主演は、79歳になったクリント・イーストウッドです。この題名の「グラン・トリノ」とは、1972年のフォードの名車の名前です。主人公のウォルトはフォードで働いていたことを誇りにしています。また、朝鮮戦争で13人以上の人間を殺したこと、それも上官の命令ではなく自分の意思で殺したことに罪悪感を持っています。わたしは牧師として、ここに一番注目しました。この映画には若いカトリックの神父も重要な役を演じています。彼の亡き妻から告解(懺悔)をするように遺言があると彼に告げます。しかし、主人公はかたくなに拒みますが、内心はちがうようです。もうひとつの主人公は隣りに越してきたベトナム・モン族の子ども姉のスーと弟マオです。はじめは異民族を侮蔑し嫌悪していたウォルトは次第に心かよわせるようになりました。
 そこで事件が起こります。スーが同じモン族の不良グループにレイプされます。ウォルトはそこでひとつの決断をします。自分ひとりで仕返しに彼らのアジトに乗り込みます。観客は当然、彼がライフルをもって彼らを皆殺しにすると期待しますが、意外にも丸腰で彼らの銃弾に蜂の巣にされてしまいます。ここで映画は終わります。
 ウォルトは自分の最期を、朝鮮戦争で犯した罪を清算すると同時に、そのことによってベトナム人の姉弟を救うことにしました。
 この映画は、人種差別、高齢の父と息子たち家族との葛藤、アメリカの自動車会社フォードとトヨタとの確執、戦争犯罪などいろいろな問題を提起していますが、わたしは、罪の問題をあつかっている大変キリスト教的なテーマがあるとみました。(2009年 5月11日)

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リストマーク     「アリとキリギリス」考

 
教訓寓話に「アリとキリギリス」のお話はよく知られていると思いますが、最近の若い人はほとんど聞く機会がないように思います。
アリは暑い夏に汗水たらして働いているのに、キリギリスはのんきに歌を歌ったり、遊んだりして過ごしていました。やがて寒い冬がやってきました。アリは蓄えた食糧で過ごせますが、キリギリスは備えがありませんのでひもじい思いをして、アリに助けを求めるという内容です。
 派遣切りで職を失ったとたんに、、住むところも食べるにも困るようになるというのは、戦後の貧しい時代を経験したわたしにとっては少し理解しにくいところがあります。わたしは、天災と貧困はいつ襲ってくるかわからないと肌で感じて育ってきました。天災はともかく、自分はいつ病気をしたり、事故に合ったりして働けなくなると心配して備えてきました。日本の経済の豊かになった時代に育った世代は、いつでも仕事はある、簡単に消費者金融から金が借りられるという安易な経済観念を持っているように思えます。
 経済的グロバリーゼーションで、日本の終身雇用制、年功序列制が崩れ、企業も人をたいせつにしない、モノと同じように使い捨てをとるようになってきています。こうした流れの中で、まず人から面倒を見てもらおうという考えは捨て、乏しい給料からでも、将来に備え、自分は自分で守るという気概を持って生きる覚悟が、いまの時代必要ではないかと思うのです。(2009年 4月24日)

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リストマーク     「天皇ご夫妻の金婚式に思う」

 4月10日
、金婚式を迎えられた天皇の所感を読んで、「天皇制」の是非については横において、天皇個人に対して敬意を持っています。それは、日本における「夫婦」のあり方に対する模範としての態度です。昔は皇室においても一夫一婦制度が守られていなかったのですが、大正天皇以降、これが守られて来たことです。いま、日本の夫婦を見ますと、不貞、不倫、浮気など何の罪意識のないところであたりまえのように行なわれています。世間では、家族の崩壊が進んでいます。その根本には夫婦の関係の崩壊があります。その崩壊が子どもたちに大きな影響を与え、犯罪に走らせていることを見落としてはなりません。家族の基本は夫婦関係にあるとわたしは思っています。
 そのことを思うときに天皇皇后夫妻の夫婦のあり方に日本国民はすべてならうべきであります。 とくに天皇制、皇室を敬っていると口にしているとくに保守系の政治家は、みずからの夫婦関係の悪いことを天皇ご夫妻の前に恥じなければなりません。とくに愛人問題でスキャンダルを週刊誌に暴露されている輩(やから)は。
なかには、天皇ご夫妻は特別な環境に置かれているからできるのだという人もいるかもしれませんが、そうではないことを、天皇の吐露されたほんとうの心からくみとることができます。
 英国をはじめ欧州の王室では、王子や王女の性的スキャンダルがあたりまえのように報じられていることと比べますと、なんと日本の皇室は倫理的にすばらしいものかと認めざるをえません。
 もう一度、天皇の「金婚式所感」を読んで、みずからの夫婦のあり方を見つめなおしてみるのもいいのではないでしょうか。
    (2009年 4月10日)
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 リストマーク      「漆間官房副長官の嘘と罪」

元警察庁長官であった漆間氏が「自民党には捜査は入らない」と言ったことが、オフレコであったから誤魔化そうとしていますが、そこにいた20人以上の記者がそれを聞いているはずです。
旧約聖書の申命記17章6節には、「2人または3人以上の証人がいる場合は有罪である」と書いてあります。20人以上記者が聞いていると証言しているのに、言ったかどうかは「記憶に無い」とはぐらかしているのは見苦しい態度です。元警察の最高幹部であった者がこんな法律意識しかないのなら、失格者ですぐさま辞任すべきです。何千年も前のユダヤ教の律法に照らしてもはっきり有罪とされます(たとえユダヤ教の律法であっても、これは普遍的なものです)。
 日本は「記憶に無い」という方便で罪を見逃してしまう悪い習慣があります。20人以上の証人によって断罪すべきではにでしょうか。ほんとうに「あいまいな日本」の現実を見せつけられます。
           (2009年 3月9日)

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  リストマーク    「村上春樹のエルサレム賞受賞によせて」

 この度、村上春樹氏のエルサレム賞受賞に関して、いろいろ論議を呼びました。氏の言葉によりますと、約7割ぐらいの人たちから受賞をボイコットせよとか、受けるならもうおまえの本は買わないとかの声が寄せられとのことです。しかし、氏は授賞式に出席し、自分の考えを率直に述べようという決断をしたとのことでした。
 授賞式での講演の全文を読みますと、イスラエルがガザに設けた「壁」に非人間的「システム」を見、ガザの人々をはじめ人間一人ひとりは弱い、壊れやすい「卵」だと氏はたとえています。
戦争はどちらかが一方的に悪いとはいえないものです。しかし、壁と卵にたとえると、氏は卵の方に立つと言います。
 「壁」と聞くと「ベルリンの壁」を思い出します。東西ドイツを隔てた非人間的壁、ある人が「人間が作る壁は必ず神によって砕かれる」と言ったことを思い出します。事実、1989年にみごとにその壁は民衆によって砕かれました。どんなに強固な壁もやがて歴史の審判によって砕かれます。神の選民を自負するユダヤ民族がそのことをいちばん経験し知っているはずです。
 この度、村上氏を招いて、自国に不利な講演をすることを許したイスラエル国もたいしたものだと思いますが、なんとか、イスラエルが旧約からの
預言者の言葉に耳を傾け神の前に正しく立ってほしいと願っています。
             (2009年 2月23日)

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 リストマーク      「ほんとうに賢いとは」

 わたしは関西人ですので漫才、落語といったお笑いが好きです。「お笑いレッドカーペット」、「エンタの神様」といった番組もよく見ます。年末恒例の「M-1グランプリ」も見ました。
最近つくづく思うのは、お笑い芸人でトップに立っている人はほんとうに並外れた才能と、いい頭を持っているということです。頭の回転といい、当意即妙といい感心させられます。いま、お笑い芸人と呼ばれている人たちは五千とも六千ともいると聞いています。その競争のはげしさ、自分たち独自のスタイルを生み出すことなど想像を絶します。だれでもなれそうだ、出来そうだとかんたんに見えますが、わたしたちとは天と地ほどの落差があります。
 ここで、ほんとうに「かしこい」とは、ということを考えさせられます。学校の成績がよいとか、一流の大学や高い学歴を持っている人が「かしこい」のかというとそうではないようです。賢いといわれている高い学歴を持っている高級官僚や政治家のばかさ加減にはうんざりさせらています。お笑い芸人は自分をいかにばかに見せて、見る人に優越感を与えるかを狙っています。これはなかなか難しいことです。
 人の「かしこさ」は、育ちや学歴とは関係なく、人と人との関係のなかや社会での経験の中でどれほど学んできたか、すなわち、その人の「学習能力」にかかっていると思います。自分は一流大学を出ていると鼻にかけている人ほど、自分はばかだとひけらかせていることに気づかなければなりません。しかし、そんな人は、そんなことには気づかないでしょうね・・・・・。(2009年1月12日)

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リストマーク   「いまだに血液型と干支での性格占いが流行」

 
今年もベストセラーのなかに「血液型での占い」本がはいっています。日本人ほど血液型にこだわる民族は世界には見られないともいわれます。少し科学的な頭があれば、こんなことで性格をきめられないことぐらいはわかるはずです。A型、B型、O型、AB型の4種類で人の性格をどうこういうのはバカげています。わたしの家族は5人がO型です。5人のうち几帳面な者、ルーズな者、せっかちな者、のんびりした者いろいろです。先日、妻が久しぶりに会った友達6人のうち偶然B型が5人いたようです。しかし、ひとりとして同じではありません。干支も同じです。12種類の動物にあてはめて、あの人は「ねずみ」だからよく体が動くしどうだ、こうだとその人の性格をきめつけるのはおかしいことです。考えてもみなさい、自分の学校の同級生は80パーセント同じ干支です。同じ学年ではどれほどの同級生がいるでしょうか。同級生はみな同じ性格でしょうか?わたしは他人から「あなたはO型だからこうでしょう。羊年だからこんな性格でしょう」と決め付けられるのは大嫌いです。お遊びで言い合うのもいいかげんにしてほしいものです。それにしても、日本人の占い好きはどうにかなりませんか。もう少し科学的、心理学的に分析して自分の頭で考え、自分なりの答えと確信を持てるようになりたいものです。(2008年12月17日)

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リストマーク      「B.オバマ次期大統領の言葉の力」

 今回、大きな期待を受けてオバマ氏が次期大統領に選ばれた。数ヶ月にわたる大統領選では候補者の人間性、説得力、スキャンダルの有無などきびしい目が注がれます。日本の首相はこそこそと密室で決められるのと大きなちがいです。
 今回わたしは、オバマだけではなく、ヒラリー、マケインなど彼らの言葉で勝負するアメリカ的選挙のすがたにあらためて感動しました。少し英語が聞き取れますので、ほんとうに言葉の迫力というものが伝わってきます(日本語に翻訳されるとその迫力が減じるように感じますが)。
 ヨハネ福音書の冒頭に「はじめに言葉があった。言葉は神とともにあった」とありますが、神の言葉は空疎な言葉、実体の無い言葉ではないことを、言葉が人となったイエス・キリストによって成就(実現)されたと宣言しています。言葉は「出来事」となってはじめて、真実であることが証明されます。
 オバマ氏の口から発せられる言葉から彼自身の人間性、誠実さ、確信などが伝わってきます。彼の言葉は、数ヶ月にわたってアメリカ国民に語られますので、国民は彼の言葉の真実性を吟味、判断することが出来、彼を選んだのです。オバマ氏は、リンカーン、ジョン・F ケネディのことばを学び、使っています。リンカーンもケネディもその言葉によって新生アメリカを約束し、実現にまい進しました。そして、アメリカ国民もわたしたち日本人よりも、言葉に対して信頼感を持ちました。
 今回、オーバーな表現ですが、わたしは、オバマ氏の言葉の力強さに”酔いました”。わたしたちは、もう少し言葉の持つ力について真剣に考える必要があると思う今日この頃です。(2008年11月5日)

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リストマーク          「米国籍も日本人?」
 
今回一度に4人のノーベル賞受賞者が日本人であったことは大変な驚きで、大きなニュースとして連日とりあげられました。
では、4人ともほんとうに日本人であったのかという検証がなされると、どうもそうではないようです。ノーベル賞委員会側の発表では、南部氏と下村氏は米国人としているようです。事実は、南部氏は米国籍であり、下村氏はまだ日本国籍を有しておられます。
 わたしたち日本人は、あまりに「日本人」を意識しすぎるきらいがあります。日本国内に在住している朝鮮半島からの人々、中国人はたとえ日本国籍を有していても日本人とは認めようとはしません。また、ブラジルの国籍を有して日本で在留している日系人をも日本人とは見ないようです。これはおかしい見方ではないでしょうか。ノーベル賞を取った人はたとえ米国籍を持っていても日本人をして勘定し、ブラジル国籍の日系人は日本人と見ない矛盾することを平気でしています。
 
南部氏も下村氏も、日本の大学(国)は、地味な基礎研究にはまったくお金(研究費)を出してくれなかった。そして米国に渡り自分の研究を認めてもらい、ふんだんにお金を出してもらったのでノーベル賞をいただけたのだとはっきりおっしゃっています。いわば、米国の暖かい貢献によるものだと言ってもいいでしょう。
 お二人は日本人の両親から、日本で生まれられた方ですので、立派な日本人にまちがいはありませんが、米国籍の人まで日本人というのは、日本人のひいきの引き倒しの感がします。
ノーベル賞は国籍のある国へ送られるもではなく、全人類の進歩に貢献した人に与えられるものであることを忘れてはなりません。もう少し、日本人というこだわり(狭い了見)から解放されたいものです。(2008年10月28日)
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リストマーク   「永田町
(ムラ)住民政治家の貧しい頭の中」

 
 中山成彬元国交相の発言のおそまつさにはあきれかえりました。
「成田空港はゴネ得のやからでうまくいかなかった」とか「日本は単一民族」とか「日教組はがん」とか「大分の教育界はどうのこうの」とか、これが東大法学部を出て、高級官僚までした人間の社会認識、常識かと唖然とし、驚きました。
 先日、朝日新聞のコラムに作家の高橋源一郎氏が、政治家2世の何人かと対談したが、まったく対話にならず、こちらの質問には答えず、自分の意見ばかりとうとうと述べ、またその言った事に質問してもまた的外れの自分の話ばかりするのであきれはてたと書いてありました。
 なるほど、政治家の社会(政界)はそれ自体の閉鎖的な社会で、まったくこの世の事情にうとく、おなじ政治家同士の話しの中でしか思考が停止しているのだということがわかりました。 官僚社会でもおなじことで、自分の省庁内だけで思考がぐるぐる回転しているだけで、一般民衆のひとびとがどういう現状にあるのかということを考慮にいれることが欠けています。ですから、とんでもない政策が飛び出してきます。
 いま、世襲議員のことが話題になっていますが、政治家が「家業」になってなってきています。世襲議員が若いときから「政界」でしか暮らしたことのないのに、国民の悩みや苦しみがどれほど理解できるでしょうか。いくら高い学歴、職歴があっても、その世界だけにしか生きていない政治家、官僚に対して、国民はもっと厳しい目と批判のことばをもたなくてはなりません。総選挙もそう遠くはありません。現状の政治に対して厳しい審判を下さなければなりません。 <2008年9月30日>

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 リストマーク     「休止符のない日本の労働環境」

 音楽には、8分音符から全音符があるのと同時に、8分休符から全休符まであります。音楽にこの休符があることは大変重要なことです。
どんな楽曲にも音符ばかりのものはありません。必ずなんらかの休符があります。これによって楽曲が成立し、聞く者に快感とやすらぎを与えてくれます。
 いま、日本の労働状態を見ますと、一言で言えば働き過ぎの状態です。欧米と日本の労働観の大きな違いは、欧米は休むことを重視し、日本は働くことを重視する点にあります。わたしが米国の神学校でパートで働いていたとき、2年目から2週間の有給休暇をいただきました。また多くのアメリカのサラリーマンは堂々とバカンスをとります。40代の男性に聞いても、「おれは早く定年退職して、好きなことをするのが夢だ。早く定年が来て欲しい、楽しみにしている」と聞いて、ずいぶん日本とは違うなと思いました。
 今の日本の最大の問題はこの「働きすぎ」です。父親が家(家庭)に滞在(居る)時間は世界の先進国でいちばん短いのではないかと思います。これがいまの家庭の問題の奥にあります。少子化、過労死の大きな原因のひとつでもあります。病院の勤務医の長時間勤務は驚くべき実情です。産科、小児科医の激減はそこにあります。ファミレス、チェーン店の店長の過重な労働時間、日本の経済発展にはこの過重労働なくしてありえなかったと言っていいと思います。もし正常な労働時間と有給休暇がいままで日本に実施されていたら経済発展はなかったのではないでしょうか。日本が欧米なみの余裕のあるライフスタイルを求めるならば、労働時間の短縮を考えなければならない時期がいま来ています。
「休止符」は音楽だけに必要なのではありません。わたしたちの豊かな安らぎに満ちた彩りのある人生は休止符のあるところからはじまります。休止符は立ち止まって今までを少し考えるとき(間)です。
(2008年9月16日)
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リストマーク       「萎縮する人間関係の日本社会」

 無差別通り魔事件の多発で、いま社会は戦々恐々の不安が広がっています。犯人たちの動機の言葉はまったく納得はできませんし、腹が立ちます。しかし、彼らのような人間を湧き出した背景にある社会状況は、あらためて考えなければならない問題を提示しています。
 最近、モンスターペアレントという言葉が流行していますが、何かにつけ気に入らないことがあれば文句を言ったり、脅しをかけたり、相手を威嚇する風潮が広がりつつあります。とくに最近、「暴れる老人」も多くなってきているともいわれます。
 KY(空気の読めない)という流行語がありますが、これもある人に向かって「おまえは自分たちのグループにふさわしくない、合わない」というレッテルを貼っているようなもので、排他的なイメージを感じます。
 学生たちの間でも、小さな気の合うごく少人数のグループが出来、そこに合わせようとしない者をはじき出す、あるいははじき出されることがおこっているとのことです。そうした中で当然疎外感、孤独感を感じる人々が出てくるのは当然です。息苦しくなり、やがて我慢の限界を突破すると、仕返し、腹立ちとしての凶行となるのです。
 社会が監視社会となり、いつも監視されているというとき、その間隙をぬって陰湿な事件を起こす人たちが、やはり出てきます。
 わたしはいま、昔の自分の小学校時代のこと思い出します。担任の男の先生は、ぼくたちを昆虫採集や飯ごう炊さんに自由に連れていってくれました。いまなら、もしそんなときに、事故でも起こればきびしく先生の責任が問われます。損害賠償を請求されます。いまの先生方はそんな恐ろしいリスクはとりません。
 むかしは親たちもおおらかでした。責任、責任と相手を追及する社会は何か窮屈な感じがします。もう、そんなむかしに、逆戻りできないいまを残念に思うきょうこの頃です。(2008年7月28日)

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  リストマーク        「増税論議での盲点」

 社会保険庁のずさんな年金事務処理のせいで、高齢者に大きな怒りをもたらしたあと、今度は「後期高齢者保険料」の年金からの一律天引き問題でまたまた政府は批判の的となりました。確かに医療費は高齢化社会になるにつれて増大するのは必定です。
 そこでいま、政府部内では、増税(目的税)を考えています。そのいちばんは、消費税の増税です。しかし、増税論議で見失われているのはいま税がほんとうに正しく、有効に使われているかどうかという「透明性」の問題です。「一般道路財源」の道路整備以外のあきれる無駄づかいは記憶に新しいところです。
 先日、新聞の投書欄にデンマーク人と結婚してデンマークで生活している主婦の方が書いていました。
  「デンマークは福祉国家で、消費税(付加価値税)は25%で、
  食料品まで一律にかけられている。確かに、そのことに関する
  ことで、人々の間で不満や矛盾点などが話題になるが、税率を
  下げよ!という国民の数は意外とすくない。
  不満が少ない原因の一つは、昨年度、世界透明度ランキング
  で1位になるほどクリーンな政治をしているからだろう。デンマ
  ークでは政治家、官僚等の贈収賄事件や税金の身勝手な出費
  はまずない。
  自分たちの税金が不正に使われているに違いない、という疑念
  が払拭できない日本人が、増税の話が出ると反対するのは、当
  然とも思える」

 参議院で民主党が過半数をとった一つのメリットは、次々と年金問題、道路財源の不正使用、等が国民の目の前に明らかにされたことです。国会議員は「国政調査権」で行政の不正を暴くことができます。長い自民党単独政権では議員と官僚は馴れ合い、互いに利権をむさぼり、かばい合ってきていたことがよくわかります。「ねじれ国会」で官僚政治の暗闇のごく一部が白日の下にだされたのです。
 政治家はすぐ増税を口にします。財源の不足は事実かもしれませんが、わたしたち国民の血税をもっと押し頂いて、有効に使わせてもらいますという僕(しもべ)の態度をとってほしいものです。増税論議のなされる前に、政治家の清潔さ、官僚の公僕意識そして、なによりも税金の使われ方の「透明性」を国民であるわたしたちは、声高く叫ばなければなりません。(2008年7月8日)

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リストマーク    「ドイツとフランスが同じ歴史教科書と使う」

 
6月6日の朝日新聞の朝刊の記事に目を疑いました。それは「独仏、同じ歴史教科書」という見出しでした。ドイツとフランスの高校生が同じ内容の教科書で学び始めたとありました。ドイツとフランスはかつては戦争をした間であり、それぞれの歴史的出来事に対しては自国中心の理解と解釈をするのが普通ですが、この教科書にはその異なる見方を併記して、お互いに相手を理解し、対話をしようという積極的な姿勢が見られます。
 わたしはEU(ヨーロッパ連合)の存在にも驚きと羨望の気持ちを持っています。現在、27か国が加盟しています。民族も言語も違う国々が共同体を形作ろうと努力しています。当然、いろいろな摩擦や亀裂もあることでしょうが、それを乗り越えようと前向きです。民族、言語は異なっても、共通の「キリスト教」というものが通底にあるからだと思います。
 ひるがえって、日本、中国、韓国の共通の教科書が将来できる可能性があるかどうかを考えるとき、なかなかむつかしいのではないかと思うのです。東アジアは「感情・情緒」が先に走ります。それに対してヨーロッパは、キリスト教の「理性」で物事を解決しようとします。そこに大きな違いをわたしは見ます。
 先に、中国人映画監督が作った「YASUKUNI(靖国神社)」のドキュメンタリー映画に、自民党の議員が「文科省が補助金を出したこの映画が反日的である」と文句をつけました。これこそ「感情論」をむき出しにした意見です。
 日本の歴史教科書を「自虐史観」だと抗議する学者、文化人と称する人たちもたくさんいます。もう少し、ヨーロッパから学ぶところがあれば学ぶべきではないでしょうか。(2008年 6月7日)
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  リストマーク    「人間の性悪を増長するインターネット社会


 いま、インターネットにまつわる犯罪が頻発しています。裏ネットと呼ばれるなかには、殺人を引き受けますとか、代わって復讐をしてあげますよといったものもあります。依頼者と請負人がまったく顔をあわせて会うことなく「メール」だけで指示して実行できます。物の受け渡し、交換もコインロッカーを使うこともできます。
 「2ちゃんねる」、「学校裏サイト」などにも、容赦のない中傷、誹謗、悪口が書き込まれます。自分を隠すために「ネットカフェ」もよく使われます。「小学○年生を殺す」「○○学校を爆破する」とか、匿名性を隠れ蓑に
して、通常口にできないことなども大胆に書き込みます。 犯人をつきつめれば、学校に勤めている人、女子高校生などまじめそうな、普通の人
です。小学5,6年生から中学生の女子がいかがわしいサイトに平気でアクセスして、簡単にお金が稼げる危ないワナや場所へと誘導されて行きます。ヴァーチャルなネットでは、どこか警戒心がゆるくなってしまうようです。
 このようなインターネット社会では、自分を隠すことが出来、自分の本性を知られることなく悪いことが出来ると思い込んでしまう人間が増えてきました。いいかえれば、神なき世界のなかで生きていると言っていいでしょう。キリスト教では、「原罪」という言葉があります。アダムとエバは神がすべてをご存知であることを忘れて、自分たちの欲望のままに罪を犯したのです。いまのインターネット社会はまさに、人間の原罪が歯止めもなくますます増長しつつある社会だと思うのです。罪の誘惑の巧妙なこと、その結果(結末)の恐ろしいことを早くから子どもたちに教える必要があると思います。
 (2008年 5月30日)

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リストマーク      「今、労働環境の劣悪化の日本」

 リストラというと「人員整理・解雇」を意味しているように受け取られているようですが、じつは、リコンストラクションの略で、本当の意味は再構築です。景気が悪くなって会社を立て直すことを目的にしていますが、まず余剰人員の整理が真っ先に来たのです。そして、正社員を少なくしていつでも首を切ることのできるパート社員、派遣社員を使って人件費を削減しているのです。
 このことで今世間をにぎわせている話題は、名ばかりの店長の残業代を支払わない、偽装派遣、サービス残業、不当解雇(内部告発者の)などなど、企業のモラルが問われています。
 100円ショップ、99円ショップなど異常な安さの品物が溢れています。
いまもまだデフレの状態が見られますが、これも人件費に影響を与えていると思います。 若い人たちが十分生活できる、あるいは結婚してやっていける労働賃金を企業は保証しなければなりません。
 ネットカフェ難民という言葉もマスコミに取り上げられました。労働意欲があっても賃金が追いついていかない状態はなんとしても改善しなければなりません。これでは、はるか昔の日本で言われた「女工哀史」、小林多喜二の「蟹工船」の時代がいま、日本に再現していると言って過言ではありません。いつまでたっても、働く者の人権が顧みられていません。労働組合も大企業、自治体が中心ですが、もっと労働者、とくに底辺に追いやられている人々にも手を差し伸べることを考えるべきです。 さらに目を「外国人労働者」へも向けなければなりません。技術習得の名のもとに考えられない低賃金、労働環境が彼ら自身から訴えられています。
 日本政府、厚生労働省はこうした深刻な社会問題にもっと真剣に取り組み、施策を行なわなければ、日本の人口形態にも大きな影響を与えるでしょう。  (2008年 5月5日)

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  リストマーク     「里親になる勇気と覚悟について思う」

 「里親」についていろいろ考えさせらたのは、「信徒の友」(日本基督教団出版局の月刊誌)で、坂本洋子さんが2007年4月号から今年の3月号まで連載された「家族はぶどうの木」を読んでからでした。
 欧米にくらべて日本には「里親制度」がなかなか広がらないのは、日本の「家制度」、「血縁家族」への強い思いいれのせいではないかと思います。そのほか、よその子をもらい、なんで苦労して育てなければならないのかという、損得勘定から敬遠することもあるでしょう。しかし、里親は、そうした苦労や犠牲を上回る、愛することのよろこびをおっしゃいます。ほんとうにイエスさまの愛に近いものを感じます。わたしたちは、実子を育てても、あとでその子たちからお返し(老後の面倒、介護)をはっきり求めています。里親は、まったくそんなことは考えられません。
 日本ではいまだに、実子(血のつながり)を求めて、「代理母」まで使って自分の子を求めようとする人があとを断ちません(その切実な思いはわかりますが)。
 まず、子どもがない家族は、里親となり、ひとりでも多くの子に幸せな家族を味合わせてあげてはどうでしょうか。
 イエスさまはこう言われました、「ごらんなさい。ここにわたしの母、兄弟がいる。天にいますわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのである」(マタイ 12:50)
 キリスト教は、肉親の関係を「止揚」して、神にある家族を形成します。ですから、教会では、「兄弟、姉妹」という呼び方をします。キリスト教の精神からすれば、里親はごく自然な考え方かもしれません。
「朝日新聞」2008年4月15日朝刊に、この里親の問題を取り上げ、日本は、「児童施設」中心の発想で、里親制度について前向きではないと主張していますが、世界各国と比較して、そう思います。

※2008年4月から、NHK朝の連続ドラマ「瞳」は、この里親がテーマ になっています。
              (2008年 4月17日)

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 リストマーク     「石原慎太郎都知事の傲慢さに思う」

 最近、「新銀行東京」問題に対する石原知事への追求が報じられましたが、石原氏の態度は一貫してみずからの責任を認めようとしませんでした。
 2期を終えた時点で、さまざまなスキャンダルが出てきました。海外出張の桁違いの豪遊、4男で画家の延啓氏への東京都の税金の無駄遣い、東京オリンピックの再招致への意気込みなど、3選は危ういのではないかと思われましたが、対立候補の浅田前宮城県知事を大差で破り過半数を獲得しました。わたしは東京都民の良識を疑いました。カッコイイものに付和雷同する東京の人々、流行の最先端に遅れまいとする意識過剰をいつも感じていました。
 それにいままでにしてきた石原氏のさまざまな問題発言を取り上げると、障害者や弱者に対する非常な差別発言、フランスや他の外国に対する侮辱的発言、北京オリンピックが開催されたあとは、しばらくはアジアでオリンピックはありえないにもかかわらず、おのれの手柄にしたいために無駄な招致活動への税金をつかいまくりました。
 彼はほんとうは気の小さい人物です。しかし、おれほど賢い者はいない。ほかはバカだという傲慢さが鼻につきます。確かに、かれは頭がよく、スマートで、才能も豊かであることは認めます。しかし、そういう人間にとって一番必要なのは「徳」と「謙虚さ」です。それがない石原氏は大した人間ではないようです。
 いま、大阪府知事に就任した橋下氏が注目されています。彼にも強引で自信満々さが見られ、批難されているところもありますが、わたしは、彼には、まだ自分を犠牲にして大阪府を立て直したいとの思いと姿勢を感じるのです。それに対して、石原氏はイイカッコウで傲慢さしか見えないのですが、みなさんはどう感じられるでしょうか。(2008年3月21日)

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リストマーク
           「人間の欲望と自然の収奪」


  「アイヌ民族は、自然のその年の”利子”の一部だけで
   衣も食もまかなってきた。
   いまの現状は、要するに自然という”元金”に手を付けてしま
   っている。元金に手をつけたら、利子はどんどん減ることに
    気づいていない(もう気づいているかもしれない)」

上の言葉は、北海道の富良野塾の倉本 聰氏が語った言葉です。
自然と共に生活をしている世界の人々は、自然の恵みとまた反対
に自然の復讐と怒りとを知っています。しかし、機械文明を生み
出した近代人は、獲れるものなら、獲れるだけ獲ろうという欲望
に支配されてきました。天然地下資源、森林木材、海産資源など
資源の枯渇の危機に直面し、ようやくその愚かさに気づいてきました。
今や、肥大した現代人の欲望をいかに適正なものにしなければ
ならないことを、ひとり一人が考えるときが来ています。GDP,
GNPが他国に比べて日本が低くなったといわれていますが、それ
らの指標は、生産高と消費高の総量を示しているので、むしろ低い
方が資源を無駄にしていないことにも通じるのです。
 自然の恵みを感謝することは、創造主に感謝することであり、
自然の怒りと復讐を怖れることは、創造主を怖れることです。
人間はもっと神の前に謙虚になることが求められています。その
謙虚さを失うとき、人間みずからの命を失うことになることを肝に
銘じなければなりません。(2008年3月10日)

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リストマーク「”お上意識”からの脱却ー”公共(パブリック)意識」への転換

日本は、江戸時代、明治時代で”お上意識”が植え付けられたように思います。為政者は国民に対して黙って言うとおり従え、という姿勢でやってきました。太平洋戦争はその典型で、”一億一心”と扇動され、国民は戦後さまざまな不幸な目に会わされました。戦後、民主主義が占領軍から持ち込まれ、国民の教育にもそれが徹底されましたが、いまもなお日本人の意識から”お上意識”は払拭されていない気がします。
 
 社会保険庁のずさんな年金事務処理はそれを如実に現しています。つまり、国民は社保庁にお任せしておけば、間違いはないと信じています。しかし、社保庁の態度は、お上意識丸出しで、年金事務処理等をやってやっている。国民からの請求のない限り、知らせもせず、支給もしないといった態度です。昔から、お上は”ありがたく思え”という倣岸な態度を示してきました。いま私たちは、”長いものには巻かれろ”といった意識から脱却して、”お上”に対して、もっと公僕になれ、国民に対してサービス精神をもって当たれと強い態度を示さなければなりません。
 その他、義務教育、国民皆保険制度など国のやっている施策に対して声を挙げなければならない時が来ています。それともう一つの考え方は、”お上”に頼らず、みんなで互いに負担し合い、助け合い、支え合うといった「民間」での発想で、新しい社会の構築へと進んでいかなければならなくなっています。いまこそ、”小さな政府から、国民による公共サービスシステム”への転換を目指しましょう。  (2008年 1月31日)

リストマーク
          「だまされた」という責任転嫁

  「だまされた」という言葉をよく聞きます。詐欺にあった、霊感商法にだまされた、儲け話しに引っかかった、結婚を約束していたのにだまされたという男女間のトラブルなど枚挙にいとまがありません。では、だまされた方が一方的に被害者なのかというと、どうもそうではないように思えます。わたしの見方は、7:3、あるいは6:4でだまされた方にも責任あるいは落ち度があると思います(3割、4割の割合で)。なぜなら、儲けたい欲望、救われたい、癒されたいという過度の依頼心、相手に対する自分の一方的な「思い入れ」などが相手の罠にひっかかるからです。確かに悪質、巧妙なものがたくさんあります。しかし、それらにひっかからないためには、うまい話しや欲望を刺激される話しや誘惑にはまず、疑うことです。そこで大切なのは「常識」です。まず常識に照らし合わせましょう。自分の思いが先走ると、相手の催眠的なセールストークの術中にはまってしまいます。欲望、願望が強い人はだまされやすいのです。だまされたと、責任を相手に押し付けても、何の解決にはなりません。いつも自己責任で行動いたしましょう。
(2007年12月28日)


 リストマーク      「いまだにはびこる”霊感商法”」

 
  いま、神奈川県警の警視という幹部が”霊感商法”に深く係わっていたというニュースが報じられています。かつて「統一原理協会」がありとあらゆる”霊感商法”で巨額の資金を集めて大きな話題となりましたが、多くの人々がそれがインチキであることに気づいたかと思っていましたが、今なおこうしたインチキ商法にだまされて100億近い被害が出ていることは信じられません。ほんとうに人間は「不幸」な状況に置かれると藁(わら)をもすがりたい気持ちになるものだとつくづく思います。
 スピリチュアルブームで前世の因縁だとか、守護霊だとか霊能者と自称する人がテレビに出て人気を博しているようですが、日本人は「因縁」にこだわるようです。つまり、原因があるから結果があるという法則に取り憑かれているのです。自分が不幸な目に会ったのは、あるいは次々に不幸、災難が続くのは何かの因縁(原因)があるのではないかとすぐに知りたがります。その結果すぐに占い師や霊能者のところに行ってその因縁をを尋ねると、何代か前の人の怨念が祟っていると言われ除霊のため、開運のためにともっともらしい品物を売りつけられるのです。
 どんなに不幸であり災難にみまわられても、因縁(原因)を知ろうとはせずポジティブ(前向き)に先を見つめて行くほうが解決の近道だとわたしは思います。
 聖書に、生まれながらの盲人をみて、イエスの弟子が「この人が盲人であるのは、親の罪ですが、この人の前世の罪ですか」とイエスさまに問うたとき、イエスさまは、「親の罪でも、この人本人と罪でもない」と言われました。弟子も過去の因縁の方に関心がありましたが、イエスさまは、この人の上に神の力が現れるため(つまり神の力によって自分自身の運命を切け拓けるため)と言われました。イエスさまは、過去の因縁にこだわっているより、自分の運命を積極的に拓くようにと、この盲人の目を癒されたのでした。
(この聖書の箇所に興味のある方は、ヨハネ福音書9章を読んで下さい) 2007年 12月21日
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 リストマーク           「年賀状の季節」

 今年も「年賀状」を書く季節となってきました。年一度だけの便りとなってしまうことになる場合があります。それでもお互いに消息を知らせあうことでも意味があると思います。いま、若い人たちの間では「メール」で済ますというのが31%といわれています。朝日新聞によりますと、いま年賀状を宛名、裏面(挨拶文)ともにパソコン印刷でするというのが60%にものぼっているようです。裏面だけの印刷は20%。そして、受け取る側としては、手書きでもらう方がうれしいというのが圧倒的です。
自分で出すのは、両面パソコン印刷なのに、もらうのはそうあって欲しくないと願っているのは、自分勝手だと思います。わたしもその一人ですが・・。聖書の中に「受けるよりは与えるほうが幸いである」とあります。
しかし現実は、「与えるより、もらうほうが幸いである」ということです。
「ギブアンドテイク」も最初に「GIVE」がきています。まず、与えることからはじめよといわれています。もらえばお返しをするというのが私たちのルールではないでしょうか。なんとか、その逆になりたいと思いますがいかがでしょうか。新約聖書のヨハネ第一の手紙に「わたしたちが神を愛したのではなく、神がまずわたしたちを愛してくださった」と教えています。これを神の「先手的愛」(Initiative Love)といいます。いま、クリスマスのこの時、神さまがイエスさまをこの世につかわし、わたしたちがどんな人間であっても罪をゆるし、愛するよとメッセージを送ってくださっていることにすべての人が知ってほしいと思います。

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 リストマーク   「教科書における「沖縄集団自決」の扱いについて


 先日、高校の教科書検定で、沖縄での集団自決は日本軍の命令ではなかったとした教科書を認めた文科省に対して、沖縄では11万人の抗議集会が開かれたことが新聞、テレビで報道されました。沖縄県民の怒りがどれほどのものであるかが広く日本国民に知らされました。
 沖縄は日本で唯一のアメリカ軍の直接地上攻撃を受け、軍民合わせて20万人の犠牲者が出た悲劇の地である。いまなお、集団自決の真実を認めようとせず、隠そうとする人々がいます。先の「大東亜戦争」を、アジアに平和をもたらした面もあったとして評価する考えのグループが「南京虐殺」「従軍慰安婦」などを取り上げ、日本軍の罪を非難する側の人々を、「自虐史観」の人々だと決めつけます。この「自虐史観」というのは、日本の歴史の中の過ち、またマイナス部分だけを取り上げて、若い世代の人々に日本に対する誇りを失わせる教育を目論んでいるというのです。しかしわたしは、やはり戦争の犯罪をしっかり見つめ、反省をきちっとやらなければならないと思うのです。キリスト教は反省というより「悔い改め」という言葉を使います。そして、悔い改めなくしてほんとうの「新生(再生)」はありえないと信じています。キリスト教では、「罪に
死んで、キリストの命によみがえる」といいます。悔い改めこそが、死ぬことで、徹底的に死んではじめて二度と過去に犯した罪をもう犯さないという新しい生へ踏み出すのです。同じ敗戦国ドイツは、日本以上にナチス・ドイツの過去を悔い改めました。そして、世界から承認されているのです。
 1985年、当時のドイツの大統領R.V.ヴァイツゼッカーは,「荒野の40年」(日本題)という演説をしました。それは、戦後40年を振り返ってドイツの戦争責任を感銘深い言葉で語りました。過去の戦争の罪を「想起」し、関係国に「謝罪」と「和解」を求めるものでした。その演説の有名な一節を挙げましょう。
  「過去に対して目を閉じるの者は、現在を見る目を持とうとしない」と言うものです。過去を、また自分の罪を直視できる者だけが、悔い改めをし、新しい一歩を踏み出すことができるのです。
                          (2007年 10月8日)

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リストマーク  「日本相撲協会に見るあいまいな日本風土」(2007年9月25日)

 「朝青龍問題」で連日連夜マスコミはこの話題を取り上げました。
誰もが「日本相撲協会」のこの問題での対応に対して「だんまり戦術」を取っていることに不満を持っています。何も言わない方が、マスコミに突っ込まれないので得策だと考えているように思えます。
 ご承知のとおり「相撲」は日本の国技であり、優勝者には天皇
からの「賜杯」が与えられます。また、相撲の一つ一つの行事には、深く日本古来の神道的な意味が込められています。その相撲に大勢の外国からの力士が加わわりました。かれらはそうした日本の習俗を知らずただ、がんばってチャンピオン(横綱)を目指し、高額なお金を手にしようと稽古に励むのです。
 わたしは、日本相撲協会がほんとうに国技として伝統を守るならば一切外国人を入れないと決断すべきだったと思うのです。 また、興行的にどうしても強い外国人を受け入れざるをえないならば、徹底して伝統的相撲道を叩き込む責任があると思います。そのどちらもあいまいにして今日まで来たツケが今回の「朝青龍問題」ではないかといえます。
 この「相撲協会」のあいまいさは、日本のあらゆる問題に見られます。とくに原理・原則をきちっと守ろうとしない日本の政治はその典型です。
 話しはかわりますが、日本の柔道も、いまや日本を離れ、国際柔道連盟によってどんどん古来の柔道からは変化してしていき、いまや、日本人が理事さえもなれないところに来ています。別にそれに対して異議を申し立てする気はありませんが、「柔道」が世界の「JUDO]になりつつあることに感慨を覚えるのです。

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リストマーク「京都キリスト教協議会(KCC)について」(2007年8月8日)
 

 いま、わたしが会長をさせていただいている「京都キリスト教協議会」(通称 KCC)についてお話いたします。
 KCCは、1957年京都にあるキリスト教各派が集まって、京都において、福音宣教の一致協力を目的に結成され、も50年が経ちました。
 KCCのユニークなところは、カトリック教会、ハリストス正教会、プロテスタント10教派、在日大韓基督教会とキリスト教主義学校(同志社、平安女学院)、YMCA,YWCA、バプテスト医療伝道団、日本婦人矯風会、関西セミナーハウスNCC宗教研究所、社会福祉法人西陣会といった日本でも類のないキリスト教団体ということができます。NCC(日本キリスト教協議会)が東京にありますが、NCCはプロテスタントだけしか加盟していません。それにくらべると、KCCはエキュメニカルを京都の地で実践してきたということができます。
 また、KCCは、京都府宗教連盟、近畿宗教連盟にも加盟し、仏教界、神社庁、神社本教、新宗教、天理教、大本教、金光教などとも、主に「平和」と「環境問題」において協力体制をやはり50年つづけて来ました。今年度まで、KCCの佐伯幸雄牧師(教団同志社教会牧師)が京都府宗教連盟の会長としてリーダーシップを発揮されました。このように、京都の宗教界にあって、KCCは実力以上に高い評価と信頼と尊敬を得ていることは自慢のようでありますが、事実です。しかし、ほんとうのところ、KCCはいまもうひとつ協力体制が足らないことも認めなければなりません。京都の宗教界にあってもっとキリストの福音を証しし、和解のわざに努めていきたいと祈っています。(何かKCCについてご質問があればお寄せ下さい)

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 リストマーク"他人事”ではなく、何事も自分のこととして考える 
              (2007年 7月26日)           

  「社会や人間は、ある運命に出会う前に、自分たちがそれ
         を作っている」  (ウイルソン米国大統領)

 
今回の中越沖地震の被害状況からいろいろなことをまなぶことが出来る。とくに東京電力の柏崎刈羽原子力発電所での事故はまったくおそまつといっていいほどのなんの地震や事故への対策が考えられていないことが露呈された。チェルノブイルやスリーマイル島の原子力発電所の大事故の教訓があるにもかかわらず、なにもそれが生かされてはいない。火事を消すためにわずか数人で消火器をもって消そうとしたり、雑巾やモップでこぼれた放射能をふき取ろうとしたり、原子力発電所という近代的なものとかけはなれた原始的な対応を見るとき、いったい東電の経営者は、安全ということをどう考えているのか、腹立たしい思いでいっぱいである。また、その情報開示の点においても、くさいものにはふたをする隠蔽体質の根が深い。
 いま、食の安全のことを考えても、食品会社のいいかげんな品質管理や偽造、偽装は目に余るものがある。こうした事件や事故がつぎつぎ頻繁に起こるのは、企業モラル(倫理)の低下が指摘される。
 モラル(倫理)とは、嘘をつくことができるが、嘘をつかない。だますことができるが、だまさない。ひとが見ていないが、悪いことをしない。そういった生き方が個人的な倫理である。おなじように、企業や団体や法人も自分たちの儲けや利益だけを優先して、知られないところで不正や悪事を行なっていれば、やがては何倍、何十倍の損失、信用の失墜を招くことを肝に銘じなければならない。過去の「雪印乳業」、「不二家」の事件を見ても、一時の儲けに目がくらんで、不正をすれば会社の存廃に至る。このことが何も教訓とはなっていない。
 倫理とは、自分の行動や生き方が他人の幸福となることを目指すものではないだろうか。自分の幸福が他人の幸福、他人の幸福が自分の幸福となるとき、社会が温かいものになるのではないか。

現代のさまざまな不幸は、すでにその種がまかれていることがほとんどある。ウイルソン大統領の上記の言葉はまさにそのことを指摘している。隠された悪が、不幸という仇花を咲かせる。


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 リストマーク"恥感覚”を失った日本人”(2007年7月12日)

有名な書「菊と刀」R・.ベネディクトでは日本人の特徴の一つとして「恥」があげられています。外国人から日本人はシャイであるとよく言われていましたが、いまや、それは当たらなくなりました。
  
とくに若い人、中年のおばさん、おじさんたちの恥ずかしい振る舞いは目にあまります。この40年、日本人はいろいろな文化の流入で変わってきました。まず、一つ目は「ファースト・フード」の普及です。
 わたしも「マクドナルド」がはじめて出現したときはおどろきました。それから日本人は平気でハンバーガーをかじりながら道を歩くことができるようになりました。わたしはいまでも、それはできません。元来日本人(多くの民族にも見られる)は、食べているところを見られることは大変恥ずかしいことと思っていました。しかしいまや、電車の中でカップラーメンを食べる高校生まで出現しています。そして、道にはファースト・フード店の包装紙と紙カップ等が投げ捨ててあります。
 二つ目は「カラオケ」です。昔は人前で歌を歌うなんてことは、よほどの自信のある人しかできませんでしたが、いまや、聞くに堪えない歌まで平気で歌う人が出現しました。自己陶酔の極みです。
 三つ目は「携帯電話」です。外に出れば、「ケイタイの使用をお控えください」などのアナウンスが溢れています。マナーの悪さは極限にまで来ています(わたしはケイタイを持ちません)。
 このように日本人のマナーを悪くしたものは、「ファースト・フード」、『カラオケ」、「携帯電話」の三つが大きな影響を与えていると考えますが、みなさんはどうお感じでしょうか。
 他人の迷惑を考えることができない、いいかえれば周囲への「想像力」の欠如、自分だけの世界に浸り、自分の心地よいことだけしか考えない新しい日本人の出現。さらにもうひとつ、いま「デキチャッタ婚」が臆面もなく明らかされるようになりました。これもむかしは、恥ずかしいことで、内緒にしていたことですが、いまや堂々と発表して、人目に出るようになりました。
いま、「恥ずかしい」という感覚がもう一度見直されてもいいのではないかと強く思わされます。

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リストマークグローバルとインターナショナルさらにインターカルチュ
    ラルへ               (2007年6月7日)


最近はインターナショナルという言葉より、グローバルという言い方がよくされます。グローバルという言葉には地球(球形)のイメージがあり、世界的といっても丸い地球全体(地球儀)を包括しているような印象が伴います。少しまえから、グローバル・スタンダードという言葉がマスコミにもどんどん使われ、世界中のどの国も、この「基準」に合わせて政治、経済を統一しなければ遅れた国と見なされんばかりの勢いが感じられました。
では、インターナショナルという言葉はどのようなイメージでしょうか。国と国との相互間の交流という意味合いがあり、グローバルという言葉に比べればまだ、すこしのんびりした感じがあります。しかし、時代の流れは速く、グローバル化が押し寄せてきました。しかし、このグローバル化はそれぞれの国の文化・宗教や、政治や経済の格差や違いをまったく無視して推し進めるところに、いま大きなほころびが出てきました。グローバル化とは、結局はアメリカのスタンダード<基準>で世界を統率しようとするたくらみであることがわかってきました。グローバルとは一つの基準で世界を統一する意図が見られます。
 そこで、わたしは真の「国際化」とは、「インターカルチュラル」、
あるいは、クロスカルチュラル(さらにマルチカルチュラル)ではないかと思うのです。「国」という概念にも問題があります。イラクをはじめ世界には一つの国の中にいろいろな民族、文化をもった人々が住んでいます。そのような国の中で有力な民族が支配し、少数民族が抑圧されたり、差別されています。そのような国でもインターカルチュラル、クロスカルチュラルの考え方を取り入れなければなりません。互いの文化、宗教、慣習を尊重し、理解し「共生」できる道を互いに真剣に探求することがこれからの世界共存の緊急課題だと思うのです。違う文化、宗教を理解し、認めることはそう簡単な作業ではないことは承知していますが・・・・・。

リストマーク 赤ちゃんポストについて(2007年3月31日)
「赤ちゃんポスト」と聞くと「赤ちゃんを投げ入れる箱」という印象を受け不愉快に感じる人が多いかもしれません。これを設置した熊本市のキリスト教系の病院は、いろいろな事情で産んだ赤ちゃんを育てられない母親によって遺棄されたり、殺されたりする赤ちゃんを救うために考え出されたそうです。この救済方法はすでに外国では実施されています。
 ここでわたしは、ひとつだけに絞って考えを述べてみたいと思いま
す。それは、赤ちゃんの命を救うことを最優先に考えるべきだということです。生まれてきた小さな命のことをまず大切に考え救うこと。捨てた母親をいくら責めても「小さな命」は助かりません。熊本のその病院には早速8件ほどの相談が寄せられたということです。
 こんな「ポスト」を設けると平気で子どもを産んで捨てる母親が増えると反対する意見もあると思います。また、性道徳が乱れ、無責任な性交渉を助長することになると危ぶむ意見もあります。性教育、性のモラルに対する教育はまたべつなところでしっかりとすべき議論として、いまは横に置かせてもらいます。。。いま、だれからも顧みられない、しかし「生」をうけて生まれてきた赤ちゃんの命をどうすれば救えるかを真剣に考えさせられるのが、この「赤ちゃんポスト」の投げかける問題ではないでしょうか。

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リストマーク   個人(家)の墓か、共同(教会)の墓か


昨年の「紅白歌合戦」で一躍有名になった歌「千の風になって」
は、「私のお墓の前で泣かないでください。そこに私はいません」と
いう歌詞があります。これは大変キリスト教に近い考え方です。
だからといって、キリスト教は、お墓が必要ないと言うのではありま
せん。人間にとってお墓は大変重要です。そこへ行って亡き人をし
のび、語り合う場所でもあり、「グリーフ・ワーク」(悲しみを軽減する
働き)の役割を果たしています。
 しかし、今、個人(家)が墓を建てることに対して私は少し疑問を
持っています。それは個人(家)の墓というものは三代経てばほと
んど「無縁墓」となって放置されるからです(霊園でも見ました)。
いまは少子化で「祭祀権」を引き継げる子が、さらに孫の代に
なってはほとんど消滅してしまうでしょう。建てた本人は建てたこ
とに自己満足感があるでしょうが、少し、後々のことを考えておく
ことが必要でしょう。
 それに対して、共同体(教会)の墓の存在があります。同じキリ
スト教の信仰を持った者が、皆「兄弟姉妹」として、キリストにおい
て共に葬られ、教会に連なる信者の人々によって末永く守られる
という保証があります。私もそこに葬られることにしています。
 「共同墓」という考え方はなにも宗教の領域だけで考えられて
いるわけではありません。いろいろな境遇の人々が同じ志を持
って、共に葬られたいと願っています。今、「墓」について根底か
ら考えるときが来ているのではないでしょうか。
(2007年 4月25日)

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リストマーク    品格ある「日本」への条件を考える

いまの日本は戦後の「闇市」の混乱状態を思わせるみみっちい事件が頻発しています。銅、アルミを泥棒する、農家が丹精こめて作った米、さくらんぼ、りんご、ぶどうといった果実を夜のうちに盗むなど卑怯な犯罪が増え、日本人の心がほんとうに貧しくなってしまっています。
 そこで、日本の国の品格を落としている社会的「罪」をここに挙げ、みなさんと一緒に考えてみたいと思います。
インドのマハトマ、カンジーのことばを引用します。

☆国における7つの社会的罪とは・・・。
1.理念なき政治(Politics without Principles)
 利益ばかりを追求し、現状に流され社会的理想を掲げることと、それを 実現しようと努力しない政治。
2.労働なき富の追求(Wealth without Work)
 堀江貴文氏の事件に見られる、ITベンチャー企業の犯罪。かつてのバブルのような経済活動。
3.良心なき快楽(Pleasure without Concience)
 毎日のように新聞、テレビで社会的地位や立場にある人が性的犯罪、セクハラ行為で捕まっているのはいったいどのような神経なのか理解 苦しむ。性的激情に抗しきれないのはなぜか。
4.人格なき学識(Knowlege without Character)
 高学歴のひとがそれに比例して、人格も立派かといえば、そうではない。小学生のときから塾通いで、知的には訓練を受けるが、人格的、宗教的なことを教えられず、知的レベルと人格的レベルがアンバランスである。
5.道徳なき商業(Commerce without Morality)
 欠陥商品を平気で販売する会社。アンチ健康で、有害なものを健康食品だと偽って売る会社などまったくモラルなき商売が目に余る。
6.人間性なき科学(Science without Humanity)
 科学の進歩は驚異的スピードで先に進むが、人間が実験台になり、人間に苦痛や不幸、悲劇をもたらしている。科学の非人間性の恐ろしさを現代は味わっている。
7.献身(犠牲)なき信仰(Worship without Sacrifice)
 これはわたしたちキリスト者にとって耳の痛いことばである。イエス・キリストに従うものは、キリストの十字架を共に担うものでなければならないのに、自分の利益、幸福を優先していることを反省させられる。

 首相の安倍氏は、抽象的な「美しい国」を口で唱えていますが、もっと具体的に上に掲げた七つの社会的罪と取り組み、解消することを目標として、まい進してもらいたいものです。(2007年5月8日)
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