「ノートルダム大聖堂の炎上について思う」
大聖堂の燃え盛る映像を見て何か精神的ものが崩落する感がした。
大聖堂という伽藍(形骸)と共に精神(信仰)も崩れ落ちたかの
ように思えた。早速、再建の話しが起こるとブランド大企業からの数千億円の
寄付金のあっという間に申し出があったのは驚きである。
ここにも信仰よりもお金が幅をきかしている。
マクロン大統領の貧富の格差政策に怒りと大企業の金の
気前の良い出し方に民衆は怒り大きなデモが起った。
フランスは一応キリスト教国である。イエスの教えである貧しい
人々の窮状に目を向けその訴えに耳を傾けるべきであるである。。
大聖堂の建て直しが緊急かもしれないが、生ける人間の問題
の方を優先すべきである。また、何よりもすべき事は、
他の大聖堂に集まって、懺悔とミサをすべきである。大聖堂は歴史的
芸術的建物ではあるが、あくまでも神、イエス・キリストを
礼拝し、罪を懺悔する聖なる場所であることを忘れてはならない。
(2019年 5月15日)
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「桜から青葉へ」
ーどちらを好むかー
教会の前の「京都御所」の桜の満開の時期とと重なり
多くの人々が来られにぎわいました。桜の種類も
色とりどりであり、ほんとうに華やかでした。しかし、見ごろは
みじかく、春の嵐もありあっと言う間の盛りでした。
古来から、桜ははかないものの代名詞のひとつです。
それでも、桜は日本人にとってはもっとも好まれる花のひとつ
です。桜の季節となりますと、日本人はすべてそわそわし、
浮き足だします。
今、御所のけやきやかえでは芽吹き、日ごとにその緑色は濃く
なってきています。毎日、御所にはいりますが、その青葉は
鮮やかさを増してきます。街路樹の銀杏の木も青い芽がふくら
みまもなくいちょうの葉」で埋め尽くされるでしょう。
わたしはどちらが好きがと問われれば、やはり桜よりも新緑の
方を好みます。桜は「平家の盛衰を物語る」ように世の無常を
感じます。しかし、青葉、新緑は新しい力、希望を感じさせ、
なにかパワーをもらえる気がして爽やかな気分に浸れます。
桜を壮年、老年にたとえれば、青葉は生命そのもの、どんどん
成長する青年にたとえることができるのではないでしょうか。
わたしは70歳を越えた老人ですが、いつも御所の青葉を見て
元気をもらっています。(2016年 4月15日)
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「子どもを誘う危うい罠」
今回の中一男女の遺体遺棄事件は、社会に大きな
ショックと怒りを引き起こしました。容疑者の残忍さに対
するおどろきは大きいものがあります。
また同時に、犠牲となった二人の行動から私たちが
目を向けなければならない子どもの危うい環境があ
ります。それは携帯電話・スマホによる子ども
たちを誘惑するさまざまなコンテンツがあるという
ことです。特に子どもたちは、そうしたものに
ほどんど警戒心を持ちません。援助交際を求める女子
中高生、また自分の使用した下着をネットを通じて
売り、お金を得ようとする女子がいることも事実です。
だいたい事件に巻き込まれる子どもたちの家庭環境
は共通しています。つまり、親から虐待・ネグレクト
されているとか、家庭に居場所がないとか、
家に寄り付かず、街や路上を浮遊している
子どもたちです。こうした子ども
たちが悪いおとなたちの「蜘蛛の巣」にひっかかり
その毒牙にかかり餌食となるのです。
いま、子どもを取り巻くSNS、LINE,、フェイスブックなど
の正しい使い方、つまり、そのようなものはいつ危険な
目に遭うか恐ろしいツールであることを学校で家庭で
しっかり教える必要があります。そのことなくして、不
用意にケイタイ・スマホを与えてはなりません。
問題を抱えている家庭が子どもを守れない場合は
、地域、学校保護者の会などがどうすればこの
ネット社会の危険性や罠から子どもたちを守れるか
を考えなければならないでしょう。
(2015年 8月25日)
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「日本人はほんとうに無宗教なのか」
朝日新聞のアンケート記事から取り上げてみたいと思い
ます。 「神や仏を信じますか」という問いに、信じる
58%、信じない42%とありました。これから見ますと、
約半数以上の人が信じているようです。しかし、別の面
から「神頼みしたいことがありますか」という問いに対し
ては、75%あります。
これから見るわたしの判断では、日本人は一応無宗教
を装っていますが、じつのところ大変ご利益主義で、
パワースポットあると聞けばそこへ出掛けるし、宝くじが
よく当たる神社があれば人がわんさか駆けつけるし、何
かご利益がある「物」、「動物」、「現象」もろもろがあれ
ば飛びつく人が多いです。信心といってもその程度の
ものです。
他方、信じない理由として挙げられているのは、@科
学的でない、A存在理由が証明できない、3神頼み
してもかなわない、C頼れるのはじぶんだけだといった
ものが見られます。これらの理由から見て、なぜ75%
の人が神頼みをしたいのか理解に苦しみます。そこに
矛盾を感じます。
日本人の無宗教や無信仰というのはあくまでも表向き
のポーズであって、じつのところ大変ご利益に敏感な
性質を持っています。ご利益があるとうわさがでると、
一応お願い、お詣りしておこう、お願いしないよりは
お願いしておいた方が、ひょとしてご利益があるかも
しれないという「計算」がはたらいています。
このような日本人の宗教観やご利益をいただけるの
ならどの宗教(神仏)でもよいとする精神は、一神教の
キリスト教との相性が悪いのは当然です。
ふつうこの世界各地では、宗教というものは生きる原
理、生き方の指針としての役割りを持っています。
イスラム教、ヒンズー教、アジア仏教、キリスト教など
においては実際の生活、生き方に規制が見られます。
とくに一神教では厳しいものがあります。その点、日本
人はそうした宗教的「縛り」をいやがる傾向があります。
しかし、グローバルな世界観には、こうした宗教的見方
と理解が必要です。日本の外交の弱いところの一つは
世界の宗教の認識が不足しているのもあげられるの
ではないでしょうか。(2015年 7月28日)
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「18歳選挙権に思う」
ー民主主義の原点にー
日本も18歳から選挙権が与えられました。これは喜ば
しいことですが、手放しで喜んでばかりにはいきません。
選挙は間接民主主義のカギを握るものだからです。
近代ではフランス革命に端を発し、選挙権を持つ者が
自分の一切の権利を被選挙人に委ねる行為です。フラ
ンスをはじめ欧米では、国民が「市民」(シチズン)として
自立し、しっかりとした自分の考え意見を持っていること
求められます。ですから、自分が選んだ議員がほんとう
に期待通り働いているかを見届けなければなりません。
今の日本は、選挙に関心がなく、だれがやっても同じ
といった無力感、あきらめが支配しています。
今の国会の実情を見ても、議員ははじめはフレッシュに
働きはじめますが、次第に「永田町ムラ」の空気しか
読めず、永田町色にすっかり染まってしまいます。
今の自民党の中には、安倍政権を批判するメディアを
封殺してしまえというおごりが見られます。むしろ、批判
に対して抑えつけるのはなく、謙虚に耳を傾けるべき
です。民主主義はあらゆる批判、言論を抑圧することは
許しません。
いま自民党にファッショ的空気がみなぎりつつあり
ます。これには強い警戒感を持つ必要があります。
また、「一票の格差」問題も、国会は利害がからみ、
まもなく参議院選挙も近づいているにもかかわらず
進みません。これは第三者機関に委ねて客観的
かつ公平にばっさり決めてもらったほうがいいのでは
ないでしょうか。日本の民主主義は、戦後アメリカ
からいただいたもので、フランスのように市民みずから
勝ち取ったものではありませんので、未熟であること
はいたしかたありませんが、もう戦後70年にもなり
ますので、18歳以上の国民は「市民感覚」を磨き
みずからの政治姿勢を選挙行為によって表明し、
議員や政権にたいして物申す強い態度を示すべき
です。 (2015年 7月2日)
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「日本人の労働観」
いま、残業時間、就労時間、過労死など話題となって
います。ブラック企業もあとを絶ちませんし、一般人
のみならず学生アルバイトにもその弊害が及んで
います。
日本の労働観と西欧の労働観は根本的に違います。
旧約聖書の創世記の初めを読みますと、アダムは神の
禁止を破って「知恵の木の実」を食べたために、その罰
として額に汗して土を耕せと命じられます。ですから、
西欧人は労働は出来れば避けたいものという感覚が
あります。それと、労働のあとには必ず休息をとらなけ
ればならないと考えます。これも神が6日間の創造の
仕事を終えて休まれたとあるからです。
先進国で日本ほど労働時間の長い国はありません。
江戸時代からの労働は美徳だ、、よく働いて金を儲け
よという道徳が刷り込まれています。体を壊すまで働く
ことが善しと考えられています。いま、この考え方を改め
休むことによって、家族との時間、自分の楽しみの時間
を確保し、真に人間らしい生き方を求めなければならな
いと思います。少子化の一つの原因は、夫の深夜まで
の労働、休みの少ないことにあるといわれます。
人間の体のバイオリズムを考えるならば、労働時間と
休息の時間のバランスにもっと関心を払わなければ
肉体的にも精神的にも大きなダメージを」もたらします。
西欧でも北欧3国は、労働、福祉、環境などわたしたち
がそのお手本とすべき国々です。
(2015年 5月19日)
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「大学が学生のために朝食用意?」
京都の2,3の大学で朝食抜きでくる学生のために
朝いちばん学食を開いて無料もしくは100円ぐらいで
朝食を提供するというニュースを見ました。朝食抜きの
学生は朝の授業に身が入らないということで、また学生
の健康面を心配しての試みのようです。
大変配慮に富んだことのように見えますがよく考えて
みますとどこかおかしいことに気づきます。
18歳以上にもなって大学が親が子どもにするような
ことをする必要があるのでしょうか。もうすぐ18歳から
選挙権が与えられるということですが、一人前の大人
として自立した市民と見られているのにです。
ある大学では、留年しそうな学生につきっきりで勉強
の面倒を見て卒業させると聞いています“自分の事は
自分で”というのが当たり前ではないでしょうか。
あらゆる面で日本社会は子供に対して過保護、過干渉
で、子どもの自立を妨げている部分が多いのではない
かと憂います。欧米では考えられない日本の大学は
そこまでお世話をする必要があるのでしょうか。
(2015年 4月27日)
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「天皇の安倍首相への当てつけか?」
4月8日、天皇夫妻は念願のパラオへの戦没者慰霊の
旅に行きました。今年戦後70年の天皇談話には、さき
の大戦への反省の思いがこめられていました。また
皇太子も今年の誕生日に出した談話にも戦争に
関する同じような反省の内容が込められていました。
天皇はさきの大戦の最中に少年期を過ごし、戦争の悲
惨さをじゅうぶん体験されたことは事実です。
天皇は、父昭和天皇がこの戦争に対して深い悲しみを
抱いていたこをを子としてよく知って,おもんばかって
いたと想像できます。
他方、安倍首相はさきの戦争に対して、中国や韓国を
刺激するような発言や態度を示し、両国との関係は今
なおぎくしゃくしています。
この安倍首相の姿勢に対して、天皇のパラオ慰霊訪問
や戦争に関する談話は、安倍首相への無言の抗議と
わたし自身は受け止めます。戦争の悲惨さや愚かさ
を知らない世代の安倍首相は、戦後70年をもっと深く
検証する努力をしていないかのような印象をわたしは
受けます。
日米安保体制の強化で自衛隊を世界各地に派遣でき
る道を推し進めている安倍首相は、戦後70年が平和
保たれていたことの根源に目を向けなければなりませ
ん。それは憲法9条の故です。
(2015年 4月8日)
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「連続ドラマで観る戦争中の日本の息苦しさ」
このところのNHKの朝の連続ドラマに共通して描かれているの
は先の第二次世界大戦下の日本の社会状況です。
「カーネーション」、「ごちそうさん」、「花子とアン」、また劇映画
では「少年H」で主人公が戦争中の思想統制、敵国語、文化の
使用禁止で大変いじめられたり、「非国民」、「売国奴」とののし
られたりして、自由に思想表現、創作活動を妨害される場面が
印象に残りました。 戦後69年、まもなく70年を迎えようと
していますが、戦争の体験のない安倍首相は、どんどん
日本を思想統制、軍事優先の政策を進めています。
わたしたち日本人は、北朝鮮の金王朝の独裁政治をニュースや
メディアをとおして観て、なんというひどい国であろうかと憤るの
ですが、かつての日本もあの戦争中はまったく同じ状況であった
ことをわすれてはなりません。全体主義国家の恐ろしさです。
いま、特定秘密保護法、集団的自衛権、ヘイトスピーチ規制法が
考えられていますが、その中に政府への反対デモへの規制も
含めようとしています。ネトウヨ(ネット上の右翼)の嫌中国、
嫌韓国の状況はひどいものです。安倍首相をネットから
支援しており、首相も調子に勇気づけられています。
いまの日本は決して戦前の「国体」には戻らないと安心
していてはなりません。いま、徐々に戻りつつある兆候に目を
光らせて、ドラマで描かれている戦前の息苦しさを二度と味合う
ことのないように、警戒しなければなりません。
(2014年 9月8日)
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「映画“ジゴロ in N.Y.”」を観る」
ーニューヨークのユダヤ教の実態を描くー
題名や内容から想像すればいかがわしい映画だと思われますが、
ウエブサイトでの映画評ではまったくだれも触れていない、本編に
流れるユダヤ人社会に、わたしは大変興味をもちました。わたしは
牧師ですので、聖書やユダヤ教の知識を持っていますので、この
映画がユダヤ教の原理主義(コチコチ派)を批判していることが
よくわかりました。
女主人公の名前はアビガイルといい、これは旧約聖書サムエル記
上25章に登場するダメ夫を持つ賢夫人の名前です。夫の急死後
ダビデの妻の一人になります。この主人公は2年前にラビであった
夫を急に失い6人の子どもを抱えて寂しい日々を送っていました。
そこで、主人公ジゴロを紹介され付き合うようになり、ジゴロも彼女
の境遇に同情しお互いに愛し合うようになります。
ニューヨークのユダヤ人社会では、ユダヤ教徒の風紀を取り締
まる私設パトロール隊が存在します。その隊員の一人はアビ
ガイルに恋情を持っており、彼女の行動をチェックして、ついに
「ラビ審問所」に不貞で訴えるのです。ここの重厚なラビたちは
映像で見るイスラム教の聖職者とまったく同じです。
一方この映画では、金持ちでセレブの女性が堂々とお金で
性的パートナーと乱れた性的関係を楽しんでいるのも重要な
場面です。ラビの妻であったアビガイルはユダヤ教の戒律に
悩み、新しい恋愛に罪意識を感じています。もはや、夫はいない
のですから、自由な立場です。しかし、ユダヤ人社会はラビの妻
であった彼女を審判するのです。
俳優ウディ・アレンは随所に、こうしたユダヤ教のコチコチ派を
皮肉っています。わたしも、現代のニューヨークで今なお、原理
主義のユダヤ教が残っていいるのにマイナスの感動をおぼえ
ました。 (2014年 7月15日)
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「安倍首相の小児的性格」
今回の憲法解釈の閣議決定への道筋、過程を見ていますと、
安倍首相の性格がよく出ています。思い込んだらまっしぐら、人
の意見にも耳を貸さず、ただただ首相の地位と権力で事を運んで
いる感がします。
これは、まことに小児的性格の典型で、周囲の自分に対する空気
を読まず、ただただ「我」を通す子どものようなものです。つい最近
大きな話題となった、兵庫県議の野々村某とまるでそっくりに見え
ます。まったく説明責任を果たさず、感情によって訴えるばかりで
まったく理解できません。自分の姿が放映されている画像をしっか
り自分の目で見てわたしたちにその感想を述べてほしいものです。
それでも自己弁明するならば人格的に破綻しています。
安倍首相は「反知性主義」と評されました。正しい論理で説得する
のではなく、「美しい日本」、「強い日本」といったフレーズで感情
的に訴えるほうが多い気がします。もっと義論を尽し、民主主義
の手続きをとるべきです。
戦争の「抑止力」としての集団的自衛権を主張しますが、それは
一歩誤れば、戦争につながり、自衛隊の海外派兵につながり、
戦死者も必ず出るでしょう。中韓に対しても、安倍首相は小児的
対応をするから、中韓も子どものケンカのような小児的態度に
出てくるのだと思います。与党自民党の中にいるリベラルな考え
を持っている人も何も言いません。議員にとって選挙と大臣ポスト
が安倍首相に握られているからです。
わたしは戦前の軍部のような支配体制がやってくる危険性を
感じます。戦前のように、国全体が「大政翼賛」状態ににあっと
いう間になるような気がします。わたしたちは、過去の歴史から
しっかり学ばなければなりません。
(2014年 7月8日)
「日本のあいまいな宗教観」
昨年12月、安倍首相は靖国神社に公式参拝しました。
英霊に尊崇の念を表すためと言い、多くの批判を受けました。
このことは安倍首相にとって悲願であってぜひともやりたい事
の一つでありました。多くの人々はそれを支持しますが、根本的
に政教分離の原則に違反しています。靖国神社は一つの宗教
法人に過ぎません。総理大臣の名のもとに参拝することは法律
違反です。また、靖国神社は戦没者の宗教を無視して、たとえば
キリスト者の信者であっても有無を言わせず祀るのです。多くの
日本人はこれを信教の自由を侵すことであるとは夢にも思い
ません。キリスト者である私の場合、裁判に訴えても異議を唱
えます。それはわたしの信仰上、許せないことだからです。
日本でよく聞くのは、宗教はつまるところ皆同じだという考えが
あります。山に登る道はいろいろあるが、結局は同じ頂上に
着くというのです。いいかえれば、宗教には境目なんかないと
いうのです。これを「融通無碍の宗教観」ということができます。
この宗教観は、他人の信仰する宗教、また信仰心を尊重しない
という過ちを犯します。基本的人権にはこの信教の自由が謳われ
ていますが、日本人にはなkなか理解できないことです。
安倍首相は、英霊に尊崇の念を捧げるといいますが、英霊たち
からの声は、なぜわたしたちは理不尽なこの戦争で死ななければ
ならなかったのかというものではないでしょうか。安倍首相は
まず、先の戦争であなたがたを殺してしまいましたと、英霊の前で
懺悔の念を表すべきであります。深い罪の懺悔のない宗教が
日本の、一般的宗教の特徴と言ってもいいかと思います。
もし英霊を祀るとするならば、外国のように、無宗教の新しい
施設を造るべきではないでしょうか。一宗教法人の靖国神社
は道理に合わないところです。 (2014年 3月15日)
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映画「ハンナ・アーレント」を観た」
今、話題の映画を観ました。内容的には堅く、重いものですが、
多くの観客を集め、深く考えさせられたという声が挙がって
います。H、アーレントはドイツのユダヤ人哲学者です。ナチス
によって迫害されアメリカに亡命しました。1960年にナチス親衛隊
長のアイヒマンがイスラエルのモサドに捕らえられ、エルサレムで
裁判が行われるとのニュースを聞いて傍聴することを決意しま
した。
彼女は裁判のやり取りを聞いて、アイヒマンがただ命令し従って
自分の任務を果たしたのであると繰り返し供述していることに
注目しました。彼は、上からの命令に、またナチスの規則に従
って遂行したのであって、自分のやっていることに何の善い
悪いを考えたことがないことに彼女は気づいたのでした。その
傍聴記が新聞に掲載されますと、ユダヤ人から痛烈な非難が
殺到しました。ユダヤ人でありながらアイヒマンを、またナチス
を擁護しているとの偏見でした。彼女がユダヤ人でなければ
これほど非難の的にはならなかったでしょう。彼女はまた、
ナチスに協力した大哲学者ハイデッガーの愛弟子であった
ことも大きく影響しているのでした。
しかし彼女の偉大なところは、ユダヤ人のナチスに対する憎悪
の感情的なものに支配されず、理性的に人間の奥に潜む「悪」
に気づいたのでした。この映画の最後の部分でハンナが満場の
聴衆の前で演説(所信表明)するところは感動的です。人間は
「平凡な人間でも知らず知らずに悪を行う危険性を持っている」
ということです。すなわち「凡庸の悪」です。ハイデッガーは
彼女に「考えること(Denken)」を繰り返し教えたのでした。思考
すること、すなわち、自分の頭の中で善いことか悪いことかを
常に考え、行動に移すことがいかに大切なことであるかを知ら
なければならないということです。
ひるがえって、いま、安倍政権は自民党、公明党の連立与党の
力で、戦前と同じような「国体」を取り戻そうとさまざまな法案を
強行採決しています。この危険な状況の中で、アベノミクスの
景気回復という夢に惑わされて、日本国民が「凡庸の悪」と
いう愚を犯しかねない状況です。平凡な国民、目の前の景気に
惑わされて、知らず知らずに政権の悪に加担していることに目覚め
なければなりません。この映画を観て、政治状況に流されず、
政治の深層に目を注ぎ、発言する大切さを教えられました。
日本が戦前、軍国主義にあっという間に洗脳されたことを忘れ
てはなりません。 (2013年 12月13日)
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「映画「『少年H』を観た、感動した!」
約7年前、妹尾河童著「少年H]は200万部のベストセラーで話題
になりました。紆余曲折をへてようやく映画化されました。妹尾家は
クリスチャンホームです。それを前面に出しての映画化です。果た
して心配を吹き飛ばして、宗教が、信仰が嫌味なく淡々と描かれ
ています。監督はもちろんのこと、脚本がよくできています。
「神戸ナザレン教会」という看板が出ている「家の教会」が映し出
され、集会の様子も見ることができます。古いナザレン信徒には
懐かしい名前ミセスステープル先生が登場します。Hの母の熱心な
信仰ぶりが堂々と描かれています。また、Hの家の中には「常に
喜び、絶えず祈れ、すべてのことに感謝せよ」、「義人は信仰に
よって生くべし」などの聖句がべたべたと貼ってあり、映画を
見ている人の目に入ってきます。
父盛夫はテイラーですので、神戸の多くの外国人の洋服の注文を
受けて、邸宅にうかがいます。それに目をつけられ「特高」から
スパイの嫌疑をかけられ指を痛めつけられるという拷問を受け
ます。そしてこの映画の圧巻は神戸空襲のすざましい描写です。
東京空襲はこれよりももっとひどかったと聞いています。数十万
死傷者がでました。ここまで戦争を長引かした当時の軍国政府
に激しい憤りをおぼえます。この映画は戦争の愚かしさを徹底し
て訴えています。その他、共産主義者と見られた青年の連行、
女形役者の召集直後の自殺など戦時中にあったと思われる
エピソードも挟まれています。私たちキリスト者にほんとうに
感動を与えた映画です。この映画の製作者、監督、脚本家に
敬意をささげます。(2013年 8月25日)
「人生の果てしない目標」
4月は大学をはじめ、各学校の入学式で華やかな喜びに満ちた
風景がテレビ、新聞で報じられています。みんな希望と期待に
胸ふくらませてにこやかで、ほほえましく思います。しかし、人生は
長く、山あり谷ありであることを忘れてはなりません。一流大学
に入ったから、一流有名企業に入社したからそれで安心とはいき
ません。入学、入社はまだ第一歩にすぎません。いつも、試練があ
り、それを乗り越え、また新しいことに挑戦しつづけなければなり
ません。ロバート君は、ハーバード大学に入学したことを教会の
牧師に報告しました。
それはおめでとう。ところでロバート君、その後の人生はどう送る
つもりかね。はい、理想の女性と結婚して、幸せな家庭を築き
ます。ほう、それから・・・。はい、定年退職して、余生を楽しむ
つもりです。 牧師は彼に、それからどうするのか、それから
どうするのかと次々たたみかけるように質問を続けてきました。
もうロバート君はどう答えていいのかわからなくなり、黙って
しましました。牧師は、きみの目標は小さいと言いました。
ほんとうの人生の目標は、神さまに喜ばれることを求めて、神と
人とに仕えることを目標にすることだよ、と。 たとえ、全世界を
儲けても、ノーベル賞をとっても、神さまから“それがどうした”
と言われたら、どう返答すればいいのかわかりません。この言葉
“それが、どうした”という言葉に耐えられる人生を目標として
生きたいものです。 (2013年 4月12日)
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「品格ある「日本」への条件を考える
いまの日本は戦後の「闇市」の混乱状態を思わせるみみっちい事件が頻発しています。銅、アルミを泥棒する、農家が丹精こめて作った米、さくらんぼ、りんご、ぶどうといった果実を夜のうちに盗むなど卑怯な犯罪が増え、日本人の心がほんとうに貧しくなってしまっています。
そこで、日本の国の品格を落としている社会的「罪」をここに挙げ、みなさんと一緒に考えてみたいと思います。
インドのマハトマ、カンジーのことばを引用します。
☆国における7つの社会的罪とは・・・。
1.理念なき政治(Politics without Principles)
利益ばかりを追求し、現状に流され社会的理想を掲げることと、それを 実現しようと努力しない政治。
2.労働なき富の追求(Wealth without Work)
堀江貴文氏の事件に見られる、ITベンチャー企業の犯罪。かつてのバブルのような経済活動。
3.良心なき快楽(Pleasure without Concience)
毎日のように新聞、テレビで社会的地位や立場にある人が性的犯罪、セクハラ行為で捕まっているのはいったいどのような神経なのか理解 苦しむ。性的激情に抗しきれないのはなぜか。
4.人格なき学識(Knowlege without Character)
高学歴のひとがそれに比例して、人格も立派かといえば、そうではない。小学生のときから塾通いで、知的には訓練を受けるが、人格的、宗教的なことを教えられず、知的レベルと人格的レベルがアンバランスである。
5.道徳なき商業(Commerce without Morality)
欠陥商品を平気で販売する会社。アンチ健康で、有害なものを健康食品だと偽って売る会社などまったくモラルなき商売が目に余る。
6.人間性なき科学(Science without Humanity)
科学の進歩は驚異的スピードで先に進むが、人間が実験台になり、人間に苦痛や不幸、悲劇をもたらしている。科学の非人間性の恐ろしさを現代は味わっている。
7.献身(犠牲)なき信仰(Worship without Sacrifice)
これはわたしたちキリスト者にとって耳の痛いことばである。イエス・キリストに従うものは、キリストの十字架を共に担うものでなければならないのに、自分の利益、幸福を優先していることを反省させられる。
・・・・・・・・・・・・・・
「映画”エンデイングノート”を見て」
ひと言で言えば大変奇抜な映画です。映画監督はこの映画の主人
公の次女です。67歳で退職した砂田知昭さんにがんがみつかりま
した。彼は自分の死に備えて準備をします。四谷のカトリック教会
に飛び込み信者になって葬式をお願いします。次女がカトリック信
者だったからです。
それからパソコンに死んだときの「段取り」をきめ細かく残します。
また、94歳の母と家族で伊勢志摩に最後の旅行も楽しみます。
圧巻は、死の床5日間の家族との濃密なお別れの会話です。
妻、3人の子どもたち孫たちに囲まれほんとうに今まで生きてきた
ことを満足と感謝を言い伝えました。観客からすすり泣きがもれて
きました。この映画は父親を冷静に見つめたドキュメンタリーで
感激しました。一人ひとりが砂田さんのように自分の死に備えて
準備をする強い意志と勇気を持つべきだと思いました。ぜひ観る
機会をつくって観てください。 (2012年 2月10日)
「立川談志に思う」
「だんしがしんだ」とスポーツ紙第一面に大きく報じられました。昭
和の天才落語家の死を多くの文化人が惜しみました。わたしは落語が好きでよく聞きます。談志の話術、間、独特の手や体の所作
はすばらしいと認め、評価します。しかし、わたしが残念に思う
ところは、あまりにも「我」が前に出すぎることです。人間国宝の
指定を受けた柳家小さんや桂米朝は「我」がうしろに退き、芸
そのものが前ににじみ出て味わいぶかいものがあります。
他方、「作家」は韜晦(とうかい)さを売りにする傾向があります。
韜晦とは自分の才能や誇るべきところをつつみ隠すという意味で
す。北 杜夫と遠藤周作は相手の韜晦さをお互いに挙げつらって
いました。そこにわたしは、お二人のユーモアを感じほほえましく
受けとめました。
わたしが談志を認めつつも、うっとうしい感じを受けるところがそこ
にあるのです。もちろん談志が大好きなファンは談志の向こう意気
がたまらないのはよくわかります。しかしわたしは、死の数年前の
テレビのドキュメンタリーを見て、彼のツッパリ人生に痛々しさを
感じました。(2011年11月27日)
「神はおられるのか?!」
わたしたちは大きな不幸にあったり、思いがけない災難に会った時
「神はいるのか?」叫ぶのではないでしょうか。今回の大震災や豪
雨による土砂大災害で多くの命が奪われ財産も失いました。
神なんかいない、と叫びたくなるのは当然だと思います。しかし、
よく考えてみてください。わたしたちは、幸福な時「神はいない」と
叫ぶでしょうか?想定外の不幸に会った時だけそう叫ぶのは
身勝手だと神さまから叱られるのではないでしょうか。旧約聖書の
人物ヨブは「わたしは神さまから多くの恵みをいただいたのだから
災いに会うことも受け入れます。神の御名はほむべきかな」と
信仰を堅く保ちました。
聖書の神は、旧約では、「怒りの神、さばきの神」として、新約聖書
では、御子イエスをとおして「救いの神、赦しの神」として現されて
います。神さまは人間とはちがい、つねに真実です。
大災害の後、原発のさまざまないいかげんな東電の原発
安全広告、設置する町への札束攻撃など、人命にたいする軽視が
明らかになりました。これも多くの部分が人災であることがはっきり
しました。わたしはこれを神のさばきと受けとめます。わたしたちの
罪が暴露されたという意味でです。これを教訓にますます神さまに
対して誠実、正直、謙虚にすべてのことをおこなわなければならな
いと肝に命じましょう。(2011年10月17日)
「スピリチュアルブームの危うさ」
この数年、スピリチュアルという言葉がはんらんしています。多くの
人々は神や仏を信じないと「無宗教」を広言していますが、やはり
心に不安を感じることが多いようです。神仏を頼らないかわりに「癒
しスポット」を訪ね歩いたり、ウエヴ(WEB)上での占いサイトや
ヒーリングサイトがよく利用されているようです。
むかしは超能力、オカルトという言葉が使われていましたが、胡散
臭いイメージをあたえたので、いまはスピリチュアルと言い換えられ
おしゃれで洗練されたイメージとなりました。そのほか、セラピー、
風水、気功、ヨガなどもそのたぐいのものとして人気があります。
このようなものが流行するのは、漠然とした社会不安や生活上の
ストレスではないでしょうか。また、新聞、雑誌の広告の半分以上
を占める健康関連サプリメントや健康グッズではないでしょうか。
キリスト教の牧師として思うことは、ほんとうの信仰とは、この世の
ニセモノとホンモノを見分ける目を持つことであるということです。
わたしたちはてっとりばやく、一時的な、表面的な癒しや安心を
求めやすい傾向があります。しかし、スピリチュアルブームに
翻弄されて、かえって思うようにはいかない不満にさらにその
危うさのワナの深みにハマラないように気をつけなければ
なりません。(2011年 8月15日)
「誤解される親鸞の『悪人正機』説」
今京都では、法然800年、親鸞750年大遠忌が盛大に行なわれて
います。「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」は有名な親鸞
の言葉です。鎌倉時代の末法思想のなか、庶民、卑賎の民と呼ば
れる仏教の救いの埒外におかれていた人々にとっては、福音でし
た。ただ南無阿弥陀仏と唱えれば浄土に往生できることは安心を
得る喜びにちがいありません。
しかし、この救いの教理は、自分の犯した悪や罪過を真剣に反省
あるいは悔い改めるという部分をいい加減にする傾向に進んで
しまいました。決して親鸞はそんな風には説いてはいませんが、
民衆は深い聖人の教理を理解できませんでした。ただ念仏だけを
唱えれば救われると安易にとらえたのでした。ですから、倫理的
行為を生み出す力を持つことができません。
キリスト教は、「信仰」と「倫理」とが深くむすびついています。
イエス・キリストは、阿弥陀仏とはちがい歴史に登場し、十字架に
おいて殺されました。弟子たちはそれを目撃し証言しました。その
証言の書が聖書(福音書)です。弟子たちはキリストを裏切った罪
にさいなまれました。そしてキリストの十字架の死を自分たちの罪
のあがない(救い)と信じたのです。そこからキリストに従う力、
すなわち、キリストの愛のわざ(倫理)が生じたのです。ここに
キリストのリアリティがあるのです。またキリスト教の信仰の
力強さがあるのです。(2011年 5月2日)
「原子力はパンドラの箱か」
「大震災」から1か月が過ぎました。大地震や津波の後始末は時間
をかければ元のように復旧できますが、原子力発電所崩壊後の
放射能ならびに放射性物質の汚染と拡散は、つかみどころのない
妖怪のような不気味なもので、世界各国も地球規模の汚染と影響
を恐れています。原子力のもととなるウランやプルトニュウムを
人間が手に入れたとき人類は大きなエネルギー作り出す科学
技術を発展させました。制御することができると過信しました。
しかし、過去にも原発事故を経験してもなんの学習にもなって
いないことが証明されました。たしかに「想定外」というものは
起こります。そこに科学技術の過信、傲慢を見ます。
原子力というパンドラの箱が開いたとき災いが拡散したのです。
また、パンドラの箱にはギリシャ語のエルピス「期待」「希望」
という意味があると聞いています。それは、原子力を利用する
人間の側にかかっているのではないでしょうか。他にも「生殖に
係わる生命工学」、「地球環境、温暖化問題」など人間のいのち
係わる「生命倫理」が、人間の手によって生み出された科学技術
に鋭く問われています。人間を実験台にし、不幸にする科学技術
ではなく、幸福をもたらすものとならなければなりません。今、
明らかになったことは、「科学技術だけでは答えの出せない問題」
が山積しているということです。「倫理」、「哲学」「宗教」といった
人間の根源に迫る思想が求められます。
(2011年 4月18日)
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「傍観者の立場と当事者の立場の深い溝」
今回の「東日本大震災」の惨状は目を覆うばかりの想像を絶する
ものです。テレビの画面はすべて連日この映像を流し続けました。
「気の毒に」、「かわいそうに」、「何ができますか」とテレビを見て
いるわたしたちは、偽りなく心からそう思っています。テレビ局の
アナウンサーやコメンテーターも同じ気持ちだと思いますが、
どうしても傍観者の立場に見えます。
今、私は旧約聖書のヨブ記を取り上げて説教をしていますが、
塗炭の苦しみの中にいるヨブと、見舞いに来た3人の友人との
やりとりの中に同じことを見ています。3人の友人たちはヨブを
慰め、因果応報の法則をもちいてなんとか納得させようとします。
しかし、苦痛の最悪の渦中にあるヨブは、彼らの慰めの言葉や
納得させようとする立場との埋めることのできない深い溝を強く
感じます。これは「非当事者と当事者」との断絶といってもいい。
この深い溝を埋める方法はなかなか見つからない。まずこのことを
よく理解しておかなければならない。そして、相手の言うことに
ひたすら耳を傾け、聞くよりほかはない。そして寄り添うよりほかは
ない。そうでないと非当事者は、所詮は傍観者だと、当事者から
思われることでしょう。この問題はたいへんむつかしいテーマです。
(2011年3月15日)
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「シェアハウス、コレクティブハウスの出現現象を見る」
先日、NHKのテレビでこのテーマでの興味深い放送を見ました。
現代は「個別化」「アトム化」「カプセル化」の時代ですが、とうとう
行きつくところまで来たところで他人同士が共同の生活を志向する
ところまで来ました。
戦後の日本の高度成長期には、全国の地方から若者を中心に
多くの人たちが大都会へと流入しました。そして都市で核家族を
形成しました。その結果、三世代の家族の縁、ムラ共同体は薄く
なってしまいました。そこで「孤独死」「無縁死」という社会現象が
出現するようになりました。その現象に対してのこれは血縁家族を超えた新しいライフスタイルです。
「シェアする」というのは大変宗教的な意味を持っています。
たがいに分け合う、補い合うことは利己的な思いを捨てなけ
ればなりません。得をしようとか、利便を得ようという動機から
ではこのシステムは機能しません。「ギブアンドテイク」で言えば
最初にギブ(与える)が来なければ成り立ちません。テイク(獲る)
が先行すれば崩壊してしまいます。大変むつかしい運営が要求
されます。実際、住人たちは率直に討論、協議を重ね、最大多数
の最大幸福の道を模索しています。お互いがどこまで自分を犠牲
にしてこの態勢を維持しつづけることができるかの試行錯誤を続け
ていかなければならことでしょう。かれらの成功を祈るばかりです。
(2010年 11月11日)
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「外国人力士に国技が守られた」
話題の多かった大相撲名古屋場所が終わりました。全勝優勝した
白鵬の涙は相撲協会理事会への抗議とわたしは受け止めました。
幕内の対戦はほとんど外国人力士同士でした。琴欧州と杷瑠都の
大きい白人同士の対戦はいまの日本相撲界の現状を象徴してい
る場面に見えました。
わたしたち日本人社会が倫理的「たが」がゆるみきってぐちゃぐち
ゃになっていることを反省しなければなりません。外国人力士たち
には大きな迷惑をかけたからです。
学校の教師、警察官、公務員など一般の職業人以上の倫理感が
求められる人たちの性犯罪などが増えています。これは由々しき
問題です。日本人の美徳である『謙譲」、『質素」、『礼儀正しい」
などがいま求められているのではないでしょうか。外国人力士に
対して模範となるような日本人親方、日本人力士になってもらい
たいものです。 <2010年 7月26日>
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「ことばでコミュニケーションする能力」
ある塾の講師が投書している文章を紹介しよう。小二の児童が「筆
箱が見つかりません」と訴えてきた。筆箱のことを言っているのかと
思っていると、実は、その児童が言いたいことは「筆箱がみつから
ないから鉛筆と消しゴムを貸してほしい」ということであった。それ
ならば最初からなにがほしいのか言おうねと諭したとのことである。
また、子どものなかには「のどが渇きました」とだけ言ってじっと待っ
ている子もいるようである。おとなが「水が飲みたいのか」と言うと
「はい」と言う。子どものなかには、相手が察してくれて、自分の
求めに応えてくれるのをじっと待つ子もよく見られる。
日本の文化のなかにはストレートにものを言うことが不作法である
と信じている部分がいまだに残っているようである。これは日本人
同士のあいだでは通用するが、外国人との交渉やコミュニケーショ
ンでは通用しない。外国人がよく言うのは、日本人は何が言いたい
のか、何を求めているのかよくわからないということである。
日本人はもともと自分の言うことを、相手に察してもらうことを期待
する傾向がある。グローバルな時代、そのようなコミュニケーション
方法は時代おくれである。はっきり、的確に自分の意思を「ことば」
で伝えるようコミュニケーション力をみがかなければならない。
(2010年 7月23日)
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「ジョークーーいま、胎児が悩んでいること?!
最新の調査によると、アメリカでは母親のお腹にいる胎児がいくつ
かの悩みを持っていることがわかった。
*ひとつ、ちゃんと産んでくれるかどうか。(中絶が多い)
*ふたつ、両親はきちんと結婚するだろうか(未婚の母が多い)
*みっつ、だれが育ててくれるのやら(養子にだされるかも)
*よっつ、何人の親ができるのか(離婚、再婚を繰り返す)
最近、悩みがもう一つ増えた。それは、ここが本当の母親の
お腹(胎)かどうかである(最近、代理母も増えてきた)
この胎児の悩みは、現代社会の現況をよく反映している鋭い
ジョークである。(2010年 6月7日))
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「輿論(よろん)と世論(せろん)」
鳩山首相は退陣を表明しました。もうどうにもならない窮地に追い
込まれたこともその原因ですが、内閣支持率の最低にも考慮した
ことも大いにあったことと思われます。今、盛んに世論調査がされ
て、内閣の不支持が週間ごとに紙上やテレビで報道されます。
しかし、どれほど正確に「民意」を反映しているかは注意して
見なければなりません。
京都大学の社会学者佐藤卓巳氏は「輿論」と「世論」を区別して
います。いわゆる世論は民衆の「気分」をあらわしているのに
対して、輿論は対話可能な「意見」、見識であるべきであると
言っています。現代はマスコミが意識下において国民の世論
を誘導しています。
しかし、民主党政権に代わってから、人々の政治に対する意識が
強くなってきました。街頭インタビューを聞いていてもしっかりした
意見が述べられるようになりました。しかし、政治家は一般受け
することばかりに走るのではなく、国家の将来と確固とした安全と
繁栄の長期的ヴィジョンを粘り強く国民に語り、理解してもらう
努力をしてほしいものです。先のマスコミに煽られた「小泉郵政
選挙」のような軽佻浮薄な世論の嵐は二度と起こってほしく
ありません。
*注)むかしは、輿論と書きましたが、現在は、世論と書い
て、「よろん」とも「せろん」とも読むことができます。
最近の狂歌から、「世論とは、初物好きの浮気者」
(2010年 6月3日)
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「ツイッターの流行に落とし穴がある」
140字でつぶやくようにフォローしたり反論したりするツイッターが
今流行しています。短い文でパンチのあることを言おうとすると
どうしても強い、キツイ文章になってしまいます。つまり、結論だけ
が述べられそこにいたるまでの論理的説明が省かれてしまい
ます。そのため、論理よりも,感情が突出してしまうきらいがみられます。
今盛んに鳩山政権についての世論調査ひんぱんにされて、ますま
す支持率は下がってきています。それはマスコミが「ワイドショウ」
番組でおもしろおかしく取りあげるだけで,ほんとうの問題の核心
をぼやかし、伝えようとしていないからです。ですから世論調査
はフワフワした国民の思いの上澄みをすくっているのにすぎない
のです。中島岳志氏は、「国民のつぶやきの断片が支配して
論理的思考を奪い、落ち着き(冷静さ)をうしなっている」と
言っています。いいかえれば、すぐに感情の火が点き燃え上がり
また、バッシングに走る構図が見られます。「死ね!」とか「失せろ!」、「バカヤロウ!」といった文字が踊ります。いま、直感的
な物言いが飛び交いますが、それは大変危険な社会的状況
だと憂います。マスコミの世論操作に嵌まることなく、冷静な判断
が求められます。そのためにも、情報を鵜呑みにしてはなりませ
ん。自分の感情に支配されないように気をつけましょう。
(2010年 5月3日)
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「政治家の説得力には感心する」
鳩山内閣でその存在感を示
しているのは、当の鳩山氏ではなく亀井静香氏である。まわりから彼の主張が叩かれようがテレビに出て堂々と持論を展開し、まわりの質問者に有無を言わせず説得するのは実に見事である。先日も元首相の森喜朗氏がテレビに出て話していたが、疑問を投げかけられても堂々と答え反論するのに感心した。
『説得」とは、persuasionで「自分の信じているところを相手に信
じさせること」を意味します。元来この言葉は宗教的で、自分の信仰を相手に押し付けるという意味合いがある。布教、折伏がそれにあたる。政治家に話しを戻せば黒を白に言いふくめる話術を持たなければ一人前とは言えないであろう。
ひるがえって、キリスト教の牧師である自分はなんと未熟であろうかと恥いるばかりである。聖書の真理を説教しても迫力はないし、相手を納得させる力もない。自分の信じているところを相手にしっかり伝え、信じさせる力を持つためにはどうすればよいのだろうかとつくづく思わされる。まだ信じる強さが足りないのだろうか。説得力の重要さを認識させられた。(2010年 4月13日)
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「キリスト教と自然(環境問題)」
昨年、民主党の小沢幹事長が高野山で「キリスト教は独善的で排他的だ」という発言をしていましたが、正直、一般的にそういう印象をキリスト教がもたれているような感じがいたします。梅原猛氏も「キリスト教は神が人間に自然を治めよ、支配せよといわれた」と指摘し、キリスト教(欧米社会)は人間中心だと言明しています。そういう言葉が創世記に確かにありますけれども、正確にはその意味は「自然を管理せよ、お前たち人間に委任する」という意味で使われているのであって、好きなように使えという意味ではないのです。
キリスト教の根本は唯神教で一人の神という考え方ですけれども、それは創造主である神です。神によって自然もわたしたち人間もつくられた。だから決して私たちは神ではなくて、つくられたもの、被造物であるという根本的考え方を持っております。ですから人間がここまで堕落したのは、やはり神の意思(わたしたちは御心といいますが)から離れて自分勝手な欲望中心の生き方に落ちてしまった。それを「罪に落ちた」と表現しています。ですから、やはり私たちは神様によってつくられ、また神様によって自然を管理する、まず神を畏れよということです。私たちが神様を畏れるということが大前提であって、自分が神様になってはいけない、自分が全知全能になってはいけない。そういう戒めをキリスト教は持っています。
これも昨年、NHKの「爆笑問題のニッポンの教養」という番組で「ドストエフスキーより愛をこめて」という対談番組がありましたが、亀山郁夫東京外大学長との話の中で非常に印象に残ったのは、秋葉原の無差別殺傷事件も取り上げられていましたけれども、現在は人間がゲームの中で、何でもできる、支配できる、ゲームでは自分が全能者、支配者であるという錯覚に陥り、そして人とのつながりが希薄になっていく(ゲーム的人間、ヴァーチャル人間化)。そのように分析されていましたけれども、容疑者はああいう事件を起こすことによって社会との絆を持とうとする、おれがここに居るんだという存在感を持ちたがっている。それは非常に逆説的な言い方で、絆や関わりが無いから反ってあのような事件を通して社会との関わりを持とうとする、そのような逆説的な分析をされていましたけれども、わたしもそうだと思います。
そして最後にロシヤのドストエフスキーは「罪と罰」で、人間はあらゆる恐ろしい罪を犯すことができる可能性を持っているということを表現しようとした。そして最後には救いを緑の大地を求めている。ロシヤの緑の大地を求めている。「大地にキスをする」という表現をしておられましたけれども、やはり緑の大地というイメージを持っていかなければならない。それが人間を回復する道であるということをおっしゃっておられました。すなわち、人間を包む自然に帰るということでしょう。
また私はこれからの時代は想像力の時代であると思います。想像力が貧弱であるので、もっと豊かにしなければならない。「環境倫理学」では次の世代のことを考えに入れていくということが「環境倫理学」の中心であるということを学びましたけれども、次の世代のことを想像する、そうした想像力を今の人間はもっともっとお互いに持たなければ地球は保全されないと思っております
(2010年 2月22日)
「日本相撲協会は本場所優勝力士の国籍の国歌を
演奏、斉唱すべきである」
朝青龍が引退した(させられた)。わたしは彼自身はスポーツマンと
してずばぬけた闘志と強さを持っている青年として好意を持っています。しかし、最後まで日本の国技としての伝統と神事と美学が理解できなかったのだと思います。それはすべて彼の責任と責めることはできません。親方をはじめ「相撲協会」を強く責めるべきだと思います。
日本の国技であるのに幕内の三分の一以上が外国人、とくに
三役以上はほとんんどがそうです。そこで、優勝セレモニーの時「君が代」が斉唱されますが、そこで優勝力士の国の国歌を斉唱したらどうでしょうか。モンゴル国歌、ロシア国歌、ブルガリヤ国歌、
エストニア国歌、ウクライナ国歌などオリンピックのように。しかし、このわたしの提案はあくまでも「冗談」ですが、これほどのことをしなければ日本相撲協会は、いまの相撲界の深刻な問題に目がさめないのではないかと思うのです。有為な横綱朝青龍を引退に追い込んだ愚行の深刻さを理解できないのではないでしょうか。朝青龍なきあと、相撲人気の衰退の大きさを「相撲協会」は、いまに味わうことになるでしょう。
(2010年 2月5日)
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「金日成はクリスチャンホームに育った」
昨年12月に発刊された「はじめての宗教論・右巻」佐藤 優著(NHK出版)を買い求め最初の部分で興味深い話題に出会いましたので紹介します。第一章に「宗教と政治ー神話はいかに作られる
のか?」に、いまの金正日の父、金日成がいかに「チュチュ思想」
を得たのかが述べられています。当時、平城はキリスト教が盛ん
でした。金日成の両親はプロテスタント(長老派)の信者で彼も
日曜学校に通っていました。彼が首領になって「不出世の偉人」
という彼のカリスマを称える偉人伝が出版されました。
まず、貧しいわらぶき小屋で生まれたとあります。そして、小学生
の時その聡明さと勇気は人々を驚かせたといったことが書かれています。佐藤氏は馬小屋で生まれたイエス、幼子イエスの宮での聡明さと重ね合わされていることを指摘しています。
ご存知のように、北朝鮮は金日成父子を救世主とする擬似宗教
国家です。金日成はうまくキリスト教の論理を使いながらナショナリ
ズムに訴えて国民を誘導してきたと佐藤氏は述べています。
世界や日本の中にも「無神論」を唱える国や人がいますが、
それは「無神論的宗教」というワナに陥る危険性が多分にある
ということです。宗教をばかにする人も気づかないうちに自分のうち
の一つの宗教を作り上げていることに気づいていないのです。
じつは、人間は本来宗教的存在なのです。
(2010年 1月9日)
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