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聖書メッセージ


N0.49「拒絶するイエス」

聖句「イエスは女に言われた,”まず子どもたちに十分食べさすべきである。
子どもたちのパンをとって小犬に投げてやるのは、よろしくない”」
(マルコ福音書 7:27)

イエスは異邦の地フェニキア地方に行かれたとき、ここでもイエスの評判は及んでいて、
ギリシャ人の女性がイエスの足元にひれ伏し、悪霊に憑かれ苦しんでいる娘を癒して
ほしいと懇願しました。それに対してイエスの返答は信じられないほどつっけんどんなもの
でした。その言葉が表記の言葉です。ここで子どもたちとは、イエスの同胞イスラエルの
ことです。小犬とはギリシャ人の女性を指します。あれほど優しく、慈愛に満ち、病気の人
を癒してこられたのに、いったいこの冷たいイエスは理解に苦しみます。
わたしたちは、イエスさまにお願いすればなんでも応えてくださる救い主と思い込んで
います。ですから拒絶するイエスさまにおどろくのです。どう理解していいのでしょうか。
ここでイエスさまは自分とギリシャ人の女性とは距離があることをまず示しておられます。
聖書はわたしたちを「罪びと」とし、神の怒り、裁きの対象であると告げています。キリスト
教の救いの条件は、罪の悔い改めが必要です。それは、このような罪びとを受け入れて
くださいと懇願することです。そこにわたしたちの救いを求める真剣さが問われているの
です。この女性は、イエスさまから小犬呼ばわりされたにもかかわらず、「主よ、お言葉
どおりです。でも、食卓の下にいる小犬も、子どもたちのパンくずはいただきます」
と切り返したのです。
イエスさまはその言葉に心打たれたのでした。そして、安心して帰りなさい。娘は癒されて
と宣告されたのです。ある人は、神が愛であるならば、悔い改めとか、膝まづけとか、そんな
ケチくさいことを言わず、無条件で救えばよいではないか、と言われました。たしかにそれは
一理ありますが、しかし、それは「安価な救い」−すなわちあまりありがた味を感じない救いで、
救われた後も、私たちの生活に変化は起こりません。
むかし、奴隷制度のあったアメリカで、ある白人が弱弱しい老人の奴隷をかわいそうに思い
買い取りました。そして、その老人に、おまえはもう自由になったのだから、どこへでも行け。
と言いますと、その老人は、わたしはどこへも行けません。もうあなたのおそばでお仕えさせ
て下さいと言って引き下がりませんでした。
わたしたちが、イエスさまに救われるというのも、まさに買い取られた老人の奴隷のような者で
あることを知らねばなりません。

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NO.48「時は神の時(摂理)なり」

聖句「しかし、主よ、わたしはあなたに信頼して、言います
“あなたはわたしの神である”と。
わたしの時はあなたのみ手にあります」

(旧約聖書 詩篇 31:14〜
15)

「時間」−−−長く感じるし、また大変短く感じます。充実_した時を過ごす
と満足感があり、逆にああ、無為、無駄に過ごしてしまったなと後悔する時
もあります。  聖書の詩人は、神を信頼し、わたしの時(人生のすべての
チャンスもピンチも)は、神さま、あなたの御手の中にありますと告白して
います。
また旧約聖書「伝道の書」(コヘレトの書)を開きますと,”天が下のすべて
のことには季節があり、

すべてのわざに時があり、生るるに時があり、/死ぬるに時があり、
/泣くに時があり、笑うに時があり、/
悲しむに時があり、踊るに時があり、/捜すに時があり、失うに時があり、/

愛するに時があり、憎むに時があり、/戦うに時があり、和らぐに時があり、/
(3章1〜14節 以下続きますが、略します。口語訳聖書参照)


私たちの人生で起こるさまざまな私的なこと、また社会的な出来事など偶然の
ように見えても、それは起こるべきこととして起こっていると言えるのでは
ないでしょうか。聖書の信仰は、時を支配しておられるのは神であり、一つ
ひとつの出来事には神の深い摂理が秘められていると私たちに教えて
います。しかし、私たちはそれを自分中心にとらえて、これは自分に
とって良い、また悪いと自分勝手に、自分の都合で判断しているに過ぎ
ないのです。極論すれば、神さまにとってはすべては時に適って
美しいのです(伝道の書 3:11参照)
多くの人たちは自分の身の上に起こるさまざまな出来事を聖書のように
とらえ、理解することはなかなかできません。わが身の不幸を嘆き、
神を恨み、世を呪い落ち込みます。しかし逆境の時、立ち止まって
深く考えてみましょう。何かを発見し立ち直るチャンスとなる場合が
多いのです。この世の成功者といわれる人は、そのようにして生き方を
転換した人です。弱いこのわたしでさえ、神の摂理と信じて、新しい
視野が拓けて前に進む経験をたびたびしてきました。「時は神の
時」という信仰に立つとき、心はやすらぎます。

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NO.47「見えると思う錯覚」

聖句「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。
しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、
あなたがたの罪がある」(口語訳)ヨハネ福音書 9:41

新約聖書の福音書のなかには、イエスが盲人の目を開けられる奇跡がよく
出てきます。とくに他の病気を癒される奇跡とはちがい、そこに深いイエスの
人々に無知をでありながら、傲慢であることを目覚めさせようとされる意図を
くみとることができます。とくにこのヨハネ福音書の9章全体にわたって
そのことがパリサイ人との論争を通して詳しくイエスの主張を理解する
ことができます。 わたしたちの多くは晴眼者であります。見えていて
あたりまえ、見えるということはなんでもわかっているとついつい思い
込んでいます。また、見えていても、見えてないとウソをつくことさえあります。
では、実際わたしたちはほんとうに見えているのかと、ときたま、自問して
みてはどうでしょう。
まず、自分自身がほんとうに見えているのでしょうか。ある調査によれば、
自分に対する自己評価はかなり高めであるという結果が出ています。だれも
自分を買いかぶっています。就活では、学生たちはそのことを思い知らされて
いるのではないでしょうか。
つぎに、対人関係においても、ほんとうに相手のことが見えているで
しょうか。相手に対する先入観、偏見、思い込みが相手に対する評価を
曲げているのではないでしょうか。とくに、恋人関係にある男女は相手を誤解
していることが多いように思えます。そこにさまざまな悲劇が生じます。

最後に、わたしたちにとっていちばん大切なことは、神が見えるかどうかです。
すなわち、神の見えざる御手を自分の人生に認めることができるかどうかです。
わたしたちが「見える」と言い張るとき、神さまはご自身を隠されます。イエスは
盲人の目を開けられたとき、あなたがた晴眼者もじつは、ほんとうのものが
見えてないんだよ教えておられるのです。「見える」という傲慢さがイエスの
真実のすがたを見えなくしているということです。
ほんとうのものが見えるかどうか、これはわたしたちにとって人生の一大事
です。イエスから見れば、わたしたちも例外なく「見えない者」なのです。
ですから、わたしたちは、謙虚に「わたしをほんとうのものが見えるように
してください」とイエスに訴え、祈る勇気を持ちたいものです。


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NO.46「冤罪に苦しむヨセフ

聖句「また彼らの前にひとりをつかわされた。すなわち、売られて奴隷と
なったヨセフである。彼の足は足かせをもって痛められ、彼の首は鉄の
首輪にはめられ、彼の言葉の成る時まで、主のみ言葉が彼を試みた」
(旧約 詩編 105:17〜18)

創世記の37章から登場するヤコブの11番目の息子ヨセフの生涯は大変
波乱万丈で興味が尽きない物語です。彼は兄たちの悪巧みによって
エジプトに奴隷として売られ、苦難の生涯を歩みはじめますが、神さまが
常に彼とともにおられたので、エジプトでもファラオ(王)の侍衛長ポテパル
の家の召使となりますが、優秀さを認められて家全体を司る執事にまで
取り立てられます。しかし、好事魔多しのごとく、ポテパルの妻に不倫を
もちかけられます。ヨセフはその容姿が大変良かったからです。妻は彼に
言い寄り、「わたしと寝なさい」と強引にベッドに誘いましたが、ヨセフは
奴隷の身で、そんなことはとんでもないと断りましたが、ヨセフの服を証拠に
家の者や主人に、「ヨセフはわたしを犯そうとしました」と嘘をつき、
ヨセフを陥れました。当然、夫ポテパルは怒り、彼を牢屋にぶち込みました。

◇いわゆるヨセフは「冤罪(えんざい)」となったのです。現代でも、この冤罪
によって長期間服役させられた人がつぎつぎに出てきています。そして
困難な末、再審請求が認められようやく無実であることが明らかにされ
ます。あれほどヨセフを信頼し、重用していた夫ポテパルもよく調べも
しないで、妻の言葉をいとも簡単に信じてヨセフを断罪しました。ポテパル
の妻は悪女の典型です。自分が悪いのに不倫の誘いを断られとことに
腹を立て、プライドが傷つけられ、ヨセフを悪者にしたのでした。

◇自分は何も悪いことをしていないのに、数々の嘘で固められて罪人と
されることほど苦しいことはありません。ヨセフは絶望の淵に落としいれ
られます。神さまを信じているのにどうしてこんな目に会わされるの
だろうかと、泣いたことでしょう。しかし、彼はじっと忍耐して自分の正しさ
が明らかにされるまで待つのです。

◇ついにその時が来たのです。ファラオの難解な夢を解き、7年の飢饉に
備えることを進言しました。ファラオはヨセフの聡明さにほれこみ、彼を
食糧管理大臣に取り立てるのです。さて、ヨセフの故郷カナンは飢饉に
苦しんで、ついにエジプトまで食糧を分けてもらいにやってきます。
神さまの計らいで、ヨセフは自分の兄弟たちが来たことを知り、面会
します。兄弟たちは自分たちの目の前にいるエジプトの大臣が自分の
弟ヨセフであることは知るよしもありません。しかし、ヨセフは目の前に
いるのが兄弟たちであることを認めます。ついに、クライマックスが来ます。
ヨセフは自分の身の上を明かします。兄弟たちのおどろきは頂点に達し
ました。おそらくヨセフは仕返しをするだろうと恐れたのです。しかし、ヨセフ
は、自分がエジプトに売られたのは、このような形で父、兄弟たちを助ける
ために神さまが前もってご計画された不思議(謎)であると告白します。

◇ここにヨセフの「摂理信仰」を見ることができます。次々の苦難もあざなえる
縄のごとく一本の完成したものとして成就(実現)したのでした。上の聖句の
「彼の言葉の成る時まで」とは、かつて子どものとき、兄さんたちの前で
兄さんたちはやがてぼくにペコペコおじぎをする夢を見たと言った「言葉」を
指しています。その言葉どおりになるには、数十年の月日がかかったの
でした。しかもヨセフにとって耐え難い数十年だったのです。しかし、ヨセフは
この冤罪も苦難も父ヤコブや兄弟たちを救うためにどうしても通らなければ
ならない自分の運命であることを悟り、神さまに感謝をささげることができ
たのでした。
ここに、わたしたちが正しいのにいわれのない苦しみに会うことの意味が
隠されています。人生を終わるにあたって、はじめて、そのことがわかる
のです。有名な「神はみこころに従う者とともに働いてくださって、すべてを
益に変えてくださる」という、使徒パウロの教えに納得させられのではない
でしょうか。

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NO.45 「神は独り子を賜う」   

聖句
「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子
を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」
(ヨハネ福音書 3章16節)

◇クリスマスの出来事は、この聖句のとおり実現しました。私たちを創造された神は
どんなに神のもとから離れ、神の怒りを買う悪を犯しても、滅ぼすことよりも、もう
一度立ち直らせ生かすことを意志されました。神が独り子をこの世につかわされたのは
最終的な道でした。この道は、神みずからが犠牲と痛みと苦しみを担われたこの世
では到底起こりうることないものです。ですから、この「福音」をほとんどの人は信じられ
ないし、受け入れられないのです。

◇創世記18章を見ますと、悪の町ソドムとゴモラのことが書いてあります。神はこの
町をその悪のゆえに滅ぼすとアブラハムに伝えます。アブラハムは甥のロトの
家族がそこに住んでいたので、神に対してもしその町に50人の正しい者がいたら
どうか赦(ゆる)してくださいと執り成します。しかしいません。さらに彼は神と取引を
して10人いたらどうでしょうかと懇願しますが、残念ながらいませんでした。ついに
ソドムとゴモラは火で焼かれました。

◇この記事は私たちに何を教えるのでしょうか。それは、この世(私たちの世界)
には、神の赦しをうけるに値する正しい人がひとりもいないことを教えています。
ですから、神はご自分の御子をこの世につかわし、その御子に人間すべての
罪を負わせ、人間を救う道をとられたのです。ですから、イエス・キリストは私たち
を救う「道」であり、神から来られた「真理」であり、滅びることのない永遠の「命」
なのです。これは、クリスマスの「秘義(ミステリー)」です。理性(知識)によって
ではなく、信仰によってしか受けとめられないものといえましょう。

注)「独り子」とは、「一人子」とはちがい、「独自」という意味で、他にはないという
ことを指しています。

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NO.44 「わかっちゃいるけどー症候群」

聖句「わたしは・・・わたしを強くして下さるかたによって、何事でもする
ことができる」(ピリピ人への手紙  4章12〜13節)

◇だれでもいまの自分に不満やはがゆさや情けなさを感じているもの
です。自分がなりたいような自分になれれば、どれほどうれしいこと
でしょう。いま、「あなたのなりたいあなたになれます」とか、「一分間で
ちがったあなたになれる」とか、その類のいろいろ「自己実現」に関する
本がたくさん出版されています。また、アルコール依存症、ニコチン依存症、
「共依存症」など、依存症からの脱出のHow toものの本も出ています。

◇そのような自己開発本等をパラパラとページをめくりますと、なるほど、
そうだなあ、なっとく、やってみようかなどと思わされます。が、しかし
その思いは次の瞬間、もうどこかに飛んでしまって、もとの木阿弥に
戻っています。なかには、本に書いてあるとおり努力している人も
おられるでしょう。でも、それはごく少数だと思います。多くは、
「わかっちゃいるけど、どうにもできないー症候群」病にかかって
いるのです。

◇自分の努力で自分を変えれる人はほんとうに立派な人です。社会で
成功された人はそうです。しかし、90%以上の人は挫折組です。
意志の強い人はそうはいません。自分の力で自分を変えられるならば
こんな楽なことはありません。

◇そこで、わたしはおすすめいたします。だれか強い人に助けてもらって
はどうでしょう。それは人間ではありません。イエス・キリストです。
なーんだそんなことかとがっかりされるかもしれません。自分を
変える秘訣は宗教心、つまり信仰です。仏教の阿弥陀仏でも
いいのですが、架空の仏では親しみや実感が沸きません。
しかし、キリストについては新約聖書の4つの福音書をじっくり読めば、
イエスさまが身近に感じられます。イエスさまがどれほど苦しんで
いる人、悩んでいる人に寄り添い助けてくださったか、わがこと
のように感じられます(わたしの場合)。

◇偉大な使徒パウロは、自分を変えられたのよみがえられたイエスさま
であると告白しています。そして、わたしと強くしてくださるイエスに
よって自分のできないこともできるようになったと述べています。
じつは、わたしもパウロと同じ経験をしてきました。そして、あなたも
同じ自己実現ができるのです。イエスさまに助けを求める自分の
弱さを認めることができるかが、実現の鍵(キー)をにぎっています。
自分の弱さを認めることって、とてもむつかしいーことですね!!

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NO.43 「ちり灰の中に悔いるヨブ」

聖句「わたしは知ります。あなたはすべての事をなすことができ、
また、いかなるおぼしめしでも、あなたにできないこと
はないことを」 (ヨブ記 42:2)

◇ついに神みずからつむじ風の中からヨブに語られました。神は
ヨブにあらためて万物の創造から、それらを支配し維持して
いることを述べられ、ヨブよ、神のわざにおまえは関わったか
と問われます。また、河馬や鰐がどうしてあのような形をして
いるのか説明できるか。天があり地がある。夜があり昼が
ある。星の運行や四季の循環がある。はたして、人間が
それを説明したり、それの意味づけをすることができるのか。

◇しかし、現代は、人間はもっともな理由をつけて自然を収奪したり、
利用し我が物のように消費し、科学技術をもって、なんでも
できると主人のごとく傲慢にふるまっています。
他方、自然万物は、みなその節度を守って、神の被造物として
その分をしっかり生きています。人間はじつは自然を勝手にできず
してもいけないのに、どうして神の自由と支配にえらそうに介入
しようとするのか。わたしたち人間には分からないことでも、神に
とっては深い意味があるのです。河馬や鰐が自分の姿形の意味
がわからなくても・・・。

◇ヨブの存在、ヨブに与えられた不条理な苦しみはわからなくても、
神には深いご計画とが秘められています。神のみ心のなかには
はかりがたい広さ、自由といったものがあり、創造者としての自由
な御手(支配)が自然と歴史との上に置かれていることを認め
なければなりません。

最後に、神はヨブの友人たちへの怒りをあらわにされます。
そして、ヨブにとりなしをしてもらえと命じられます(42:7〜8)。
それは、ヨブへの忠告の言葉のなかに、神のように裁く傲慢さ
が見られたからです。すなわち、神の座から物言ったからです。
このように、ヨブ記は、あくまでも神は、神である。あくまでも人間
は、人間であるという「分」をわきまえよ、ということを教えています。

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NO.42「因果応報の法則は絶対か」

聖句「考えても見よ、だれが罪もないのに滅ぼされた者があるか。
どこに正しい者で、断ち滅ぼされた者があるか。わたしの
見た所によれば、不義を耕し、害悪をまく者は、それを刈り
取っている。かれらは神のいぶきによって滅び、
その怒りの息によって消えうせる」(ヨブ記 4:7〜9)

◇ヨブの理不尽な』苦難に対して友人エリパズは上記のような
因果応報の原理を持ち出してヨブを納得させようとして
います。もちろんヨブはそれにはまったく同意いたしません。

◇この世での悩み、苦難の解決方法は、この因果応報の法則が
よく用いられます。多くの人々は苦しみの原因がわからない
ときには、占いや霊能者のところにいって、この原因は何で
しょうかと尋ねます。すると必ず、かれらはその因縁を先祖の
たたりや悪縁、悪因をもちだして説明し納得され、除霊や
悪因絶縁の祈祷と称して多額の金を巻き上げています。
今このときでも、その手にやすやすとだまされています。

◇NZの地震で多くの若い人たちが犠牲となりました。なぜ、
どうしてという思いで胸が痛みます。もし、むりにでもこの
理由原因を突きとめようとすると、かえって物事を悪くする
方向に行くと思います。

◇まず、この世では因果応報の原理では解決できない問題が
あることを認めなければなりません。旧約聖書のヨブはついには
それを認め、神さまのなさることは人間の知恵、知識で計ること
ができないことを認めました。考えてもみてください、もし人間が
神さまのなさることが全部理解し、説明できれば、もう神さまは
ご自分の立場を失ってしまうのではないでしょうか。わたしたち
人間は、神を畏れ、神のなさることを謙虚に受けいれて、ヨブの
ようにそれでも神さまを信じつづけることを見ならうべきだと思い
ます。

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NO.41「サタンについて考える」

聖句「サタンは言った”ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。
しかし今あなたの手を伸べて、彼のすべての所有物を
撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、
あなたをのろうでしょう」(旧約 ヨブ記 1章9〜11節)

◇聖書の中でサタンが大きく登場するのは、このヨブ記と福音書の
イエスが40日40夜の荒野での断食後に現れるのが印象的です。
ヨブ記では、サタンは神さまと神の子との会議に参加して悪役
を演じます。このヨブ記という書物は「ドラマ仕立て」の構成を
とっています。

◇サタンは通常「悪魔」と訳されますが、ヨブ記では神さまと対等に
話しができる存在として描かれています。つまり、人間の深層に
ある悪をほじくり出して「善人面(つら)」を暴く役を演じる役割です。
ヨブは敬虔で、善人で神さまからも賞賛されているが、ほんとうの
ところ、神さまからの祝福を繁栄をいただくためにそう装っている
に過ぎないと、サタンは神さまに、ヨブを撃つことの許可を得ようと
して、ゆるされます。

◇神さまはあくまでもヨブを信じておられるのがよく分かります。
すなわち「善意」をもってヨブを見ておられますが、サタンは
「悪意の結晶」とでもいっていいほど人間を信じません。
すなわち、人間というものは自分にとって損か得かという
「損得勘定」で動いている、そのことを今回ヨブを通じて
証明したいと、神さまに申し出ているのです。

◇これはわたしたちにとって宗教とは、わたしたちにご利益を
もたらさないと意味がないという考え方を証明しようとする
サタンの挑戦と言っていいでしょう。いかに人間というものが
自分の利益中心で神を拝み、礼拝しているかということを暴露
しようとサタンは試みているのです。

◇いまサタンは「悪意の結晶」「悪意のかたまり」で人間を見る
と言いました。わたしたちも胸に手を当てて考えて見ますと
友人、知人を善意で見るよりも、悪意をもって見ることの方が
多いように思えます。わたしたちの内にもこの「サタン性」が
あることがわかります。これをキリスト教では「罪」というの
です。神さまは善意をもってわたしたちの罪を赦そうとされ
ますが、サタンはゆるしません。イエス・キリストが、十字架に
死なれたのは、神さまが罪びとである人間をゆるすために
ご自分の独り子を犠牲にされたということを証示していると
いっていいと思います。サタンはわたしたちの外に存在して
いるのではなく、わたしたちの内に巣くっていることに戦慄を
おぼえなければなりません。 (2011年 1月20日)

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NO,40 「マリヤの従容さに見る信仰」

聖句
「そこでマリヤは言った、”わたしは主のはしためです。
お言葉どおりこの身になりますように”」(ルカ 1章38節)
※できれば、1章26節から読んでください。

今世界中で、約20億人のキリスト教徒がいると言われていますが、
キリスト教の起源をたどりますと、ナザレの村娘マリヤに行きつき
ます。名もなきマリヤの上に起こったことは、だれにも知られず、
大変個人的な出来事でありました。けれども、このマリヤという
一人の女性の決断が、世界の救世主(キリスト)の誕生のかぎを
にぎっていたといってもよいのではないでしょうか。

◇彼女はとつぜんの天使ガブリエルの出現におどろきましたが、決して
取り乱すこともなく冷静にそのみ告げを聞きました。その内容は、
未婚の自分に子どもが与えられる、しかも、その子は将来「いと
高き方の子」と呼ばれるという理解しがたいものでした。これは
まさに「不条理」そのものでした。よりによって婚約者のいる女性
に「白羽の矢」を立てられるとは・・・。見方を変えれば、これほど
不幸で哀れな女性はこの世にはめったにいないでしょう。彼女の
一生はこのことでまったく台無しになってしまうからです。

◇しかしマリヤは、しっかり御使いの言葉を理解し受け容れました。
普通このような場合、気が動転して相手の言うことを聞くよりも、
これから自分の身に起こるであろうことをあれこれ考え、うわの
空状態になってしまうことでしょう。しかしマリヤは、御使いの語る
言葉をしっかり受けとめ、深く思い巡らしました。そして、「神には
できないことは何一つない」という剛速球ともいうべきみ言葉を
胸で受け止めたのでした。そして「わたしは主のはしためです。
お言葉どおりこの身になりますように」と従順に答えました。

◇みなさんも自分の思い通りにならなくて、とんでもないイヤな目に
会わされたという経験の一つや二つあることでしょう。それをどう
受けとめますか?あの人せいでとか、運がついていなくてとか、
ダマされたとかいろいろなもっともらしい理由をつけて納得させ
ようとしますね(ほんとうのところは納得できていないのですが)。

◇キリスト者は、自分の身の上に起こるさまざまな凶事(もちろん
幸せな場合も)もまた「神の時(カイロス)」として理解します
(旧約聖書 コヘレト3章11節参照)。カトリック教会では、
マリヤは聖母として特別の尊崇の対象です。それは彼女が
自分のすべて犠牲にして神にささげたという点で、キリストと
おなじ気高さを見るからです。

◇クリスマスは、イエス・キリストという神さまからの言葉(ヨハネ
福音書 1:14)を受けいれ、そのありがたさを知って喜び
祝うべきときなのです。しかしこの世(人々)はキリストを
拒絶したり、反抗したりすると聖書ははっきり明言しています。
自分の都合の悪いことを理由にして神の言葉を無視するの
ではなく、もしマリヤのように自分の思惑を捨てて「はい、
従います」と言うことができれば、わたしたちの想像を超えた
神さまからの祝福をいただくことができます。クリスマスは
私たちの信仰が問われる時でもあります。

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NO.39「すべての部分は助け合って一つである」

聖句
「わたしたちの一つの体は多くの部分(肢体)から成り立って
いても、すべての部分が同じ働きをしていないように、
わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を
形づくっており、各自は互いに部分なのです」
(ローマ信徒への手紙 12章4〜5節)

◇人間のからだはじつに精巧な部分、部分から成り立っています。
大変重要な臓器である心臓、肝臓といったものから、髪の毛一本
に至るまで、どれ一つをとっても無くてもよいものはひとつもありま
せん。確かに重要さの度合いはありますが、必要、不必要といった
点からいえば、なんらの差はありません。

◇映画、演劇に例をとっていえば、よく主役、脇役という言い方がされ
ます。そして何かにつけて主役を演じる俳優がスポットライトを浴び、
ちやほやされます。しかしよく考えてみれば、主役だけで映画やドラマ
ができるわけではなく、脇役をはじめ監督、スタッフといった人たちが
必要であり、それらの人々の一丸となった協力、よい働きがなくては
良いものはできあがりません。

◇よく聞く話しですが、監督、演出者は主役を選ぶのと同様に脇役等
の人選に心をくばるということです。わたしも映画やドラマそ見る
とき、脇役やとくに悪役の演技を楽しみます。そしてつくづくよい脇役
がいないと映画やドラマはおもしろくないなあと思います。現代は主役
が実力がなくても、マスコミの宣伝に乗っけて、人気をあおります。
わたしたちの社会を形成している部分は多種多様です。みんな助け
合ってはじめてみんなが快適で心地の良い社会が生み出される
のです。オレがわたしがという人たちが社会を不幸にしています。
わたしたちひとりひとりは、渋い脇役に徹して国民という主役を盛り
立てていきましょう。
「神は劣っている部分をいっそう見よくして、からだの調和をお与えに
なったのである。それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が
互いにいたわり合うためなのでである」
(コリント第二の手紙  12章24〜25節(口語訳聖書)

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NO.38 「完全な者とは」

聖句
「わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっている
とか言うのではなく、ただ捕らえようと追い求めているのである」
(新約聖書 ピリピ書 3:12)
ピリピ書 3章8〜16節をよく読んでください

◇ここでパウロは「完全」とか「全き人」という言葉を使っています。それは
いわゆる「キリスト者の完全」のことを取り上げているのです。「完全」
それはなんという惹きつけられる言葉でしょう。だれもがそれを目標に
します。しかも真面目な人であればあるほど・・・。

◇一般に完全な者になるためには勉励刻苦、精進を積み重ねなければ
到達できないものと考えられます。ユダヤ教神秘主義者のなかには
神との合一といった神秘的体験を誇っている者もいました。しかし、
パウロはそれを否定します。彼も誇ろうと思えば「第三の天」にまで
挙げられた経験をしたと言っています。

パウロは、すでに完全な者になったというよりも、いまなお、完全を
求めて、捕らえようとして追い求めている段階であると言っています。
というのは、キリストに捕らえられられているからであるとその理由を
述べています。彼の目標は、主キリストです。その「キリストとその復活
の力を知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、復活
に達したい」(10〜11節)というのです。すなわち、キリストの全生涯、
全人格に倣いたいのです。もし、わたしは完全な者になったという人が
いれば、それは、キリストに捕らえられていないからです。自分でそう
思っているのに過ぎません。

◇キリスト者はキリストにわしづかみにつかまえられている者といって
いいでしょう。そのとき、自分はキリストとははるかに遠い不完全な
者という自覚に導かれるでしょう。その思いが、前に向かわせる力
になるとパウロは言うのです。
ジェット機は、上昇するためには全速力で前に向かって滑走路を
走ります。すると浮力によって上昇し、空高く上がるのです。最初から
上に揚がろうとはしません。わたしたちも、上に(完全になろうと)あがろう、
あがろうとするのではなく、主キリストを目標に、キリストの恩寵の力
によって前に向かって進んでゆくときに、完全に近づけるのではないでしょうか。

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NO.37 「虹ーそれは神と人間の信頼の架け橋」

聖句「さらに神は言われた”これはわたしと、あなたがたおよびあなた
がたと共にいるすべての生き物との間に代よかぎりなく、わたしが
立てる契約のしるしである”」
(創世記 9:11〜17)

◇人間は神さまが造られたなかで、ご自身と応答できるものとして、もっとも
愛しておられた被造物です。しかし、アダムとエバはそれに叛き、罪を
犯してしまいました。彼らの子どもカインとアベルのあいだにおいても
兄カインが弟アベルを殺すという恐ろしい事件が起こります。また、アダム
とエバの間には子どもが与えられますが、だんだん、人間社会に罪が
広がり、ノアの時代にはそれが頂点に達したと記されています。

◇「罪」とは「的はずれ」と言う意味があるように、自由意志を持った人間は
神の的から大きくはずれてしまい、これ以上放っておくことができないと
神さまは決断されました。そこで洪水での人類と生物の一掃の計画を
ノアに打ち明けられました。ノアだけが「無垢<イノセント>」と認め
られたからです。ノアと子どもたちは一生懸命「箱船」(方舟)を造りはじめ
ました。周囲の人たちはおまえたちはいったい何をしているのかと聞き
ました。ノアは神さまの裁きについて語りましたが、誰一人耳を傾けず
相変わらず悪行に走っていました。

◇ノアの箱舟のことは良くご存じだと思いますのであとの詳細は割愛しますが
すべては神さまのご命令どおりに事が進み、ようやく水が引き、箱舟から
すべてのものが出て、新しい大地を踏みしめました。
(注:箱舟は、イエス・キリストの救いを暗示するメタファーです)。 

◇そこで、神さまはノアとの間に新しい契約(約束)を立てられました。
それは、もう二度と洪水によって全被造物を滅ぼさないというもの
でした。その契約のしるしが「虹」でした。人々は、空にかかった虹を
仰いで、”ああ、私たちの先祖は神に叛き、悪行によって滅ぼされた。
しかし、神さまの深い憐れみによって、そういうことは二度と起こされ
ない。私たちはそのことを心に刻み、神さまの愛に応えていこう”
と思ったことでしょう。

◇虹をレインボウといいます。すなわち、雨ー弓です。弓は人殺しの武器
の一つです。それを神さまは雲の中に示して、「平和」「和解」のしるし
として示しておられます。また、虹の七色から、人間に対する神さま
ご自身の属性を知らせていると解釈する聖書学者もいます。すなわち、
@憐れみA恵み、B真実、C正義、D知恵、E大能、F同情を挙げます。
この「虹」は、また人間がどれほど神さまに叛き、罪を犯しても、滅ぼす
ことを選ばないで、生かし、救う道を取るとの意思表示とも受け取れます。
それは、イエス・キリストの十字架のあがないに依る救いによって、いま
私たちに示されていることに気づき、感謝しましょう。

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NO.36 「あなたはどこに居るのか」

聖句「するとふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかった
ので、いちじくの葉をつづり合わせて腰に巻いた。・・・そこで、人と妻
とは、主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。主なる神
は人に呼びかけられて言われた、「あなたはどこにいるのか」
(創世記 3:1〜13節参照)

◇「創世記」は聖書の最初の巻です。そこには宇宙の創造、最も関心
のある「人間の創造」が書かれていますが、とくに、この箇所は、神と
人間の関係が物語りスタイルで、大変興味深く描かれています。

◇神さまはアダムとエバを造られエデンの園に住まわせ、すべての生物
を支配(管理)するように命じられました。自然環境問題で、梅原 猛氏
をはじめとする東洋思想家は、ここに人間が自然を支配する環境破壊
の元凶があると指摘しますが、それは正しくはありません。人間も創造物
の一つであって、創造主なる神からその管理を委ねられているのに
過ぎません。すなわち、神さまの御心にしたがって治めなければなら
ないのです。しかし罪を犯したアダムとエバは、ここではっきり神さまに
叛き、自分の思いどおりに生きようと図ったのです。その結果、知恵の
木の実を食べて賢くなったのではなく、裸であることに気づかされ、
恥ずかしくなって神さまの前に出られなくなり、身を隠さざるをえなくなった
のです。

◇「主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた」という大変臨場感溢れる
表現がありますが、「足音」はいろいろなとらえ方ができます。恋人の
足音ならワクワクしますが、神の足音はアダムとエバにとっては裁きの
恐ろしいものとなったのです。身を隠している二人に向かって神さまは
「どこにいるのか」と呼びかけられました。どんなトーンであったでしょう
か?怒りに満ちた響きがしたのでしょうか?けっしてそうではありま
せん。彼らの「良心」に呼びかけるトーンであったと想像できます。彼ら
は仕方なく神さまの前に出てきました。

◇「取って食べるなと命じた木から食べたのか」と問われます。アダムは
女が食べさせたといい、女は蛇が誘ったのですと自分の意志でないと
弁解しました。突き詰めますと、女を、蛇をお造りになった神さまが
悪いという論法になります。ここに私たち人間を姿、ほんとうの罪の
真相が描かれています。

「どこにいるのか」という神からの問いかけは、人間に対する神さま
からの根源的な問いです。それに対して私たちは真実をもって
応答する責任があります。人間を造られたというのは、神さまの
愛の対象としての人間です。神は人間との良い関係、良い応答関係
を求めておられるということなのです。しかし、アダムとエバに代表
される人間は罪を犯し「神さまの顔を避けつづけている」のです。

◇神と人間の罪による断絶は、愛の断絶といってもよいと思います。
まず、創世記でカインとアベルの兄弟の関係が殺人をいうかたちで
壊されます。兄弟同士であっても愛が破綻してしまって恐ろしい事件
に発展してしましました。「妬み」と「憎しみ」という罪の根源が露呈
されています。 ここで注目すべき神さまの問いかけがカインに対して
投げかけられます。「おまえの弟アベルはどこにいるのかと。
「知りません!わたしは弟の番人でしょう」とカインは突き放した答え
をしています。これは兄弟の関係性の否定、拒絶です。
今、私たちは神さまから「あなたはどこにいるのか」と、もう一つ「あなた
の隣人はどこにいるのか」という問いかけの神の声を聞いているで
しょうか。この二つの神からの問いかけは、わたしたちの人生を決定
づける根源的な問いです。真正面から答える勇気があるかどうかも問
われています。

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NO.35 「イエス自身が復活を証明する」

聖句「彼らは喜びのあまり、まだ信じられないで不思議に思っていると、
イエスが、「ここに何か食物があるか」と言われた。彼らが焼いた魚
一切れをさしあげると、イエスはそれを取って、みんなの前で食べられた」
(ルカによる福音書 24章 41〜43節)

◇四つの福音書に記されているイエスの復活の記事は、イエスがよみがえ
られた状況、消息をいろいろな角度から描いていて興味深いものがあり
ます。よみがえられたイエスがよみがえったことを弟子たちに信じさせる
ために涙ぐましい努力をしておられることが汲み取れます。

◇ヨハネ福音書では、復活のイエスに会うチャンスの逃したデドモと呼ばれて
いるトマスにわざわざ現れて、では、わたしの脇のしたの槍で刺された傷跡に
手を入れて確かめて見なさいと言われました。トマスはとんでもない、復活
されたことを信じますと恐れおののきました。そのときも復活のイエスは
閉められている戸をすり抜けて部屋に入ってこられたと記しています。

◇そして、そのもっともおかしいのは、上に記した聖書箇所です。弟子たちは
イエスがよみがえられたことを半分信じられるところまで来ていますが、なお
信じられない疑いが残っていました。それを知ってイエスは、なお自分がよみ
がえったことを証明するために、焼き魚をムシャムシャと食べられたと聖書は
告げるのです。ある人はこれを「イエスのユーモア」と言いました。真剣であるが
どことなく、そこまでしなくてもと言いたい部分があります。もしイエスが幽霊で
あれば焼き魚を食べられるでしょうか?ここでイエスの復活の体は肉体であり
しかも復活の体であるという信じられない、ありえない体であったといえる
のではないでしょうか。

◇イエスの復活はこのようにしてイエスご自身が涙ぐましい努力をして弟子たち
によみがえったことを証明されました。よくテレビで、幽霊のようなものを見た
という体験談が話されますが、わたしはその人にとってそれがほんとうであったと
信じます。しかし、イエス・キリストの復活はひとりやふたりの人が見たというの
ではありません。何百人のひとが見たと聖書は告げています。だからこそ、
イエスが十字架の死からよみがえられ天に挙げられたと確信をもって、
聖霊降臨日(ペンテコステ)の日を期して弟子たちは大胆に十字架と復活の
『福音』を宣べ伝える力と勇気を与えられたのです。キリスト教の信仰の
中心はこの復活信仰です。この信仰が希望であり、生きる力となって
私たちを前へと押し出してくれるのです。

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NO.34 「背負い、持ち運ぶ神」

聖句「わたしに聞け、ヤコブの家よ イスラエルの家の残りの者よ、共に。
      あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。
   同じようにわたしはあなたたちの老いる日まで 白髪になるまで、
背負っていこう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、
背負い、救い出す」(旧約イザヤ書  46章3〜4節)

◇2010年を迎えました。文明の進化とともに人間は神から独立して、
神に背を向け、自分の道をどんどん歩いています。その結果はどう
でしょう。自然は収奪され、疲弊し再生する力さえ失っています。
神はノアの「洪水時代」のように、怒りのあまり人類を一掃すること
さえ考えてもよいほどです。しかし、ノアに約束されたように、滅ぼす
ことよりも、救うこと、救う道を考えておられるのです。神は慈愛と寛容と
忍耐をもって見守っておられるのです(ローマ2:4参照)。ここに神の
深い憐れみがあることを知りましょう。

◇イザヤは、国破れ、バビロン捕囚になって失望落胆し、望みを失って
いるイスラエルの民に、神の変わらない約束と救いを語っているの
です。この章の1〜2節に「ベル」「ネボ」というバビロニアの神々の名
が出てきますが、バビロンが滅ぼされるとき、人々は巨大なベル、
ネボ神を運び出すの疲れ果てたことが記されています。ある家が火事
になったとき、そこのおばあさんは大きな仏壇を背負って運び出した
あと、息が切れて亡くなったという話しがあります。

◇形のある神々や仏像は運び出したり、盗まれたりします。しかし、わたし
たちを創造された神は、わたしたちによって運ばれたり、きれいにして
もらったりされるのではなく、わたしたちを最後の最後まで導き、永遠の
命へと救おうとされる愛の神なのです。

◇空高く飛ぶ飛行機はどのようにして目的地につくのでしょうか。目に見えない
電波によって誘導されているのです。わたしたちも正しい場所に居続ける
ためには「神の言葉」いつも聞いて誘導されて進まなければなりません。
神はわたしたちに、責任をもって背負い、持ち運び、救うと約束されて
います。それを実感できるのは、聖書のみ言葉に聞き従っている時です。

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NO.33 「マリアとエリザベツ」
ークリスマスのかげの主役たちー

聖句「主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女は、なんと幸いなことで
しょう」 (新約聖書 ルカ福音書 1章46節)

◇み使いガブリエルから「受胎告知」を受けたマリアは、「お言葉どりこの身になり
ますように」と受け入れたあと、どっと不安とおそれに襲われました。大きな
信仰の決断をした人が、必ず味わう不安です。彼女はこの気持ちを訴え
理解してもらえる相手として、親戚エリザベツを選んだのでした。

エリザベツがマリアを迎えてあいさつを交わした時、彼女の胎内の子がおどり
ました。彼女はマリアの心の中のもだえを知り、深く理解を示しました。それは
エリザベツ自身が老年で子を授かるという信じられない神さまの恵みを受け、
喜びと感謝に満たされていたからです。

◇マリアは、エリザベツの上にも神さまの言葉(約束)が成就しつつあることを見て、
神さまには何もできないことはないことを知ったのでした。このように、信仰と
いう世界では、一般の人々が理解できないことが、たがいに分かり合え、
喜び合うということがおこる不思議な次元なのです。

◇マリアにとって、神さまがなさったことは理不尽で、自分の人間性を無視する
ような出来事と怒り荒れ狂うこともできたでしょう。しかし、彼女は神さまの
真実を信じ、その理不尽を受け入れたのでした。神さまの不思議な恵みは
このようなかたちで現れることがあるのです。神さまのなさることは、時に
かなってほんとうに美しい(調和の美)のです。マリアとエリザベツという
ふたりの女性の篤い信仰によって主イエス・キリストの誕生が見られる
ことになったことを見落としてはならないと思います。

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NO.32 「何を食べるか」

聖句
「ダニエルは王の食物と、王の飲む酒とをもって、自分を汚すまいと、心に
定めたので、自分を汚させることのないように、宦官の長に求めた」
(旧約聖書 ダニエル書 1章 8節)

◇クリスチャンはこの世で生きることに多少は困難を感じるものです。それは
世間とキリスト教の価値観、世界観が違うためです。この世のそれらに
迎合して生きれば楽な面もあり、また社会的地位も待遇も上がる場合も
あります。キリスト教信仰はある意味で自分の生き方を通さなければ意味
がありません。この世に合わせて生きるのなら「信仰」を持つ必要もない
からです。この信仰は、自分の生きる信念とならなければなりません。

◇バビロニアに捕囚となったダニエル他3名の若者は、その姿の美しさ、聡明さを
バビロンの王に気に入られ、特別に王と同じ食物と酒をもって養われる
ことになりました。しかし、ダニエルたちは大胆にもそれらの好条件をきっぱり
断り、従来のユダヤの野菜と水を中心とした食事でお願いしますと申し出
ました。それは宗教的(ユダヤ教的)な食物禁忌にも理由があったからです。
ただし、他の王の食物等をとった若者と10日の後にどう違うかを見るという
条件でした。しかし結果は、ダニエルたちが優れ、彼らの要求は認められる
ことになりました。さらに彼らの優秀さのゆえに、どんどん高官にとりたて
られ、最終的にはバビロンの最高の地位にまで上げられました。

◇このことは、この世に生きるクリスチャンに大きな励ましとなる証言です。
ついついクリスチャンもこの世の甘い誘惑に誘われやすい状況に置かれ
ます。ここで「食物」とは何を指しているのでしょうか。これは単に口から
入る食物だけを意味していません。ダニエル書はじつは、ダニエルたちが
食べていたのは「神の食物」つまり聖書の言葉であったというのです。
すなわち、この世の誘惑を退けて、神の言葉に従ったのです。ここに勝利の
秘訣があったのです。

◇主イエスは「わたしには、あなたがたの知らない食物がある。・・・・わたしの
食物というのは、わたしをつかわされたかたのみこころを行い、そのみわざを
成し遂げることである」(ヨハネ福音書 4章32、34節)と言われました。
わたしたちは、主イエスが言われた「神の食物」をいただかなければ、この世
に勝利することはできません。最初からダニエルのように勝つことは出来ない
かもしれませんが、忍耐し、希望をもってみ言葉に従っていけば、最終的には
勝利できるという確信を持たなければなりません。ダニエルたちはその後も
バビロンでさまざまな嫌がらせや、命まで狙われる目にも会いますが、神の力
によって打ち勝ちます。こんな話しは夢のような話だと大多数の人々が一笑に
付すかもしれませんが、現実には多くの実例をわたしは見てきました。この世に
あって、何を優先するか、何に従って生きるかということが、じつは、いちばん
大切なことなのです。

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NO.31 「淫行の妻を受け入れよ」

聖句
「行け、夫に愛されていながら姦淫(淫行)する女を愛せよ。イスラエルの人々が
他の神々に顔を向けその干しぶどうの菓子を愛しても、主がなおかれらを
愛されるように」(旧約聖書ホセア書 3章1節)

ホセアは紀元前8世紀の預言者だといわれています。彼の預言の背景には彼の
悲惨な家庭、つまり妻ゴメルとの結婚生活があります。彼はその渦中にあって
神のイスラエルへの裁きと赦しと受容の愛を聞かされ、神のイスラエルへの愛が
どれほど深いものかを知らされます。神は他の神々(豊穣神バアル)へ浮気する
イスラエルに怒り、嘆かれます。

◇ホセアの妻ゴメルも彼のもとを離れ、愛人を次々代えて子どもまでもうけます。
そしてついには娼婦にまで堕落してしまいます。その妻ゴメルを赦し、買い戻して
再び妻として受け入れよと命じられたのです。果たして、わたしたちはそんな
ことができるでしょうか。裏切った妻が落ちぶれても、自業自得だざまあみろと
見放すのがふつうではないでしょうか。しかし、イスラエルの神は、わたしが淫行の
イスラエルに対しても最後の最後まで赦し、もう一度受け入れ戻すから、ホセアよ
おまえも同じようにしなさいと命じられたのでした。

◇ホセアは自分の苦しい経験をとおして、赦せない者を赦し、受け入れられない者
を受け入れる「神の愛」の深さ、広さを身をもって知ったのです。彼はゴメルに
こう言います「お前は淫行をせず、他の男のものとならず、長い間わたしのもとで
過ごせ。わたしもまた、お前のもとにとどまる」と。なんという愛にあふれた言葉で
しょう。もしこの夫ホセアの真実の愛にゴメルが応えないならばもはや彼女は
人間失格である。

◇しかし、新約聖書は、淫行の妻を受け入れたホセア以上の人物が登場する。
それはイエス・キリストである。放蕩息子のように父(神)から離れ、淫行に
身をもちくずしているわたしたち人間に対して、責めもせず黙々と十字架への
道を歩み、十字架上において血を流し、肉を裂かれたわたしたちの贖い主で
あるキリストを仰ぎ見るのである。ホセアがゴメルを買い戻すために支払った
銀と大麦の値もさることながら、キリストがわたしたち罪びとを救うために払わ
れた「血と肉」の値(あたい)の大きさは比べものにならないことがよくわかります。

※「自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身としてくださった
のですだから、しっかりしなさい。奴隷のくびきに二度とくながれてはなり
ません」(ガラテヤ信徒への手紙 5章1節)

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NO.30 「聖霊を欺くとは」


聖句
「ペトロは言った”アナニア、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、
土地の代金をごまかしたのか。売らないでおけば、あなたのものだったし、
また、売っても、その代金は自分の思い通りになったではないか。どうして、
こんなことをする気になったのか。あなたは人間を欺いたのではなく、神を
欺いたのだ”」(新約聖書使徒言行録 5章3〜4節)

◇ペンテコステに聖霊を受けた弟子たちは自分たちでも信じられないほどの聖霊の
働きと力とを受け、ナザレのイエスがキリスト(救い主)であることを宣伝した
のでした。何千人という人々が福音を受け入れ加わり、新しいキリストにある
「共同体」を形成しました。

◇聖霊を受けると、聖霊に支配されいままで自分ではどうすることもできなかった
こともできるようにされることはよく聞かされています。いままで大酒を飲んでいた
人がキリスト集会で悔い改め、聖霊を受けたとき、もう酒のにおいもイヤになったり、
タバコを吸っていた人もピタツと吸いたくなくなったという証しをよく聞きました。

◇4章の終わりに、キリスト共同体は、自分たちの持ち物(財産)売り、ペトロの前
に差し出し、一種の「共産分配社会」がそこに出現したと記しています。ここでも
聖霊に満たされる(支配される)と、今まで執着していたことから解放されると
いうことがよくわかります。

◇しかし、5章ではアナニアとサフィラ夫婦の知りたくないスキャンダルが隠しもしな
いで、聖書はわたしたちに知らせています。彼ら夫婦は、バルナバという人が
自分の土地を売った代金をすべてもってきてペトロに差し出したことに刺激を
受けて、自分たちもイイカッコウをしようとして不幸なことにそれが仇になって
命を失うことになります。

◇なぜ良いことをしようとしたアナニア・サフィラ夫婦がこのような悲劇の主人公に
なったか?それは聖霊が顕著に働いているさなかに、サタンに心を奪われた
からです。彼らは献げる、献げない自由を強い功名心からサタンに売り渡して
しまったのです。おそらくバルナバに負けまいという競争心もあったことでしょう。
「良いことをしよう」とする心にサタンは忍び寄ります。良いことをしようとする時、
ことさらに、わたしたちは自分の心深く自問自答しなければ過ちを犯してしまいます。
悪い動機で良いことをしてもそれはもっと悪い結果を生むということを肝に銘じ
なければなりません。ペトロが言うように、わたしたちの「自由」を聖霊を欺く
ことに用いてなりません。良いことと自分の名誉が絡み合うとき、サタンは
そこに食らいついてきます。

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NO.29  「何をしてほしいのか」

聖句「イエスは彼にむかって言われた"わたしに何をしてほしのか”。その盲人は言った
"
先生、見えるようになることです”そこでイエスは言われた”行け、あなたの
信仰があなたを救った”」

エリコの町の道端に、盲人で物乞いの男が群集の気配を感じて、それがイエスの
一行であると知った時、「ダビデの子、イエスよ」と叫び始めた。彼は目が見えない
ので、イエス一行がどこにおられるかわからなかったから大声で叫ばざるをえな
かったのである。人々は黙らせようといたがその勢いにはどうすることもできなかった。

◇イエスは彼を呼んでくるように命じ、彼に向かって「何をしてほしいのか」と尋ねられた。
「見えるようになることです」と、彼は明確に自分の求めを言った。これは当たり前の
ことと思いがちであるが、案外、今自分が生きるうえで、一体、何をして欲しいのか
分からない場合がおおいのではないだろうか。

バルテマイは盲人であったが、イエスが何者であるかを正確に知っていて、そして
自分のもとめるところを必ずイエスは聞き入れてくださると確信していた。イエスは
それを「信仰」と言っておられるのである。

◇わたしたちは自分のうちに切実な求めるものがあるとき、イエスが何者であるかが
見えて、それをイエスは必ずかなえてくださると、信じられるようになる。
イエスはなぜわざわざ盲人に「何をしてほしいのか」と問われたのか?それは、
わたしたちがいったい何を切実に求めているかを確認するためである。盲人が
やって来たからといって、イエスは黙って、はいはい、目を開けてあげようとは
言われない。わたしたちの切実な求めをしっかり確認するまでは、何もして
くださらないということを心得ておかなければならない。

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NO.28 「祈りによる力」

聖句「すると、イエスは言われた”このたぐいは、、祈りによらなければ、どうしても
追い出すことはできない”」
(マルコ福音書 9章29節)

◇イエスの不在のとき、弟子たちはてんかんの子どもを癒すことができなかった。そこで
イエスはその子の父親のイエスへの信仰を確認されたのち、その子を癒された。
弟子たちは"どうしてわたしたちにはできなかったのですかとたずねた。かつて、
弟子たちはイエスによって「けがれた霊を制する権威を与え・・」(マルコ 6:7)
られている。では、どこに原因があったのか。

◇どうして自分たちは出来なかったのか、という問いは、かつては出来たのに今どうして
出来ないのかという気持ちがこめられている。これは、自分たちの「無力さ」を問題に
しているが、イエスは、彼らの「不信仰」を問題にしておられる。

◇「不信仰」はじつは「祈り」と密接に結びついている。すなわち、祈りとは自分の無力
(不信仰)を認め、神の力を信じ、依り頼むことである。祈りとは、無力な私たちを
通して、神の大能の力を見せていただくことである。マタイ福音書では、「このたぐいは
「祈りと断食」によらなけらばならないと言っておられる。「断食」とは自分を「空」に
することである。祈りとは、神の前にまったく「空」になることである。その「空」の
内に神の力が注がれる。もし、祈りにおいて、神を用いようといった思いが少しでも
あれば、それは「空」とはいえない。「信仰」も、いつも一定の量的なものと考え
がちであるが、信仰とは、一瞬、一瞬神との祈りにおける関係である。それゆえ、
自分であると思っていても、じつは空っぽである場合もあることに、
気がつかなければならないのである。

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NO.27 「不信仰者が信じるとは」

聖句「”もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんなことでもできる。”その子の
父親はすぐ叫んで言った。”信じます!不信仰なわたしをお助けください”」
(新約聖書 マルコ福音書 9章23〜24節)

◇山上では、弟子たちはイエスの栄光の姿に陶酔していたが(山上の変貌の出来事)、
山の下では、残りの弟子たちは、てんかんの子どもを癒すことが出来ず、群集に取り
囲まれ、さげすみの目で見つめられていた。

◇イエスは一切の事情を聞いて、「なんという不信仰な時代であろう」と嘆かれた。かつて
は、弟子たちに病人を癒し、悪霊を追い出す権威と力とを与えられていたにも
かかわらずこんな有様とは・・・・・と。不信仰な時代とは、人間の知恵と能力と技術で
なんでも出来ると思いあがっている現代に通じる、神への祈りと信頼のない時代を指す。

◇さて、人々の不信仰をあざわらうかのように、イエスの目の前で、悪霊はその子を激しく
ひきつけさせ、地に打ち倒した。それはある意味で、イエスへの挑戦でもあった。それを
見て、その子の父親は、イエスに対して「もしできれば、・・・」と中途半端な懇願の言葉を
口にした。

◇イエスは「もし・・・」と言う父親に対して、「信じる者にはどんなことでも出来る」と父親の
信仰を喚起された。そのとき「信じます!不信仰なこの者をお助けください」と叫んだ。
イエスはその不信仰な状態から、イエスに対する信頼を認めて、その子をおいやしに
なった。不信仰な者を信ずる者へと変えるのは、イエスの言葉のへの信仰である。
イエスの言葉はわたしたちの不信仰を打ち砕く力があることを認めるべきである。

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NO.26 「人の否定と神の肯定」

聖句「あなたがたは、この聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を許すように要求し
いのちの君を殺してしまった。しかし、神はこのイエスを死人の中から、
よみがえらせた」新約聖書 使徒行伝  3章14、15節)

◇ペンテコステ(五旬節)の出来事は「使徒行伝」の2章からはじまり、まるでドラマを
見るような展開が起こります。3章のはじめに、ペテロとヨハネが神殿の「美くしの
門」と呼ばれているところで長年「物乞い」をしていた足のきかない男の人を「イエ
スの名」によって癒し、立たせたところからこの騒動がはじまります。       

◇そのことによって多くの人々が彼らを取り囲み、ペテロとヨハネが語っている「ナザレ
のイエス」が旧約聖書に預言され、イスラエルに約束されていた「メシア」であることを
信じ受け入れ、5000人、さらに3000人と増えていきました。時の権力者(サドカイ人)
らは、邪教と恐れ、あらゆる手段をもって押さえつけようとしますが、火山の吹き上がる
マグマのようにイエスの弟子たちの宣教の働きはとどめようもありませんでした。  

◇聖書は、人間が権力をもって、武力をもって神の真理を抑え、封じ込めようとしても、
たしかに一時的には成功しますが、やがてひっくりかえされて、神が勝利されることを
証明します。使徒行伝3〜5章をよく読んでください。そのことがあざやかに示されて
います。権力者は抑えても、脅してもイエスの弟子たちがそれをはねのけて、さらに
強力に立ち上がり、伝道します。                               

◇ここで、権力者側の実力者ガマリエルが言った言葉はまさに正鵠を射ています。  
    「この際、諸君に申し上げる。あの人たちから手を引いて、そのなすままにして
   おきなさい。その企てや、しわざが、人間から出たものなら、自滅するだろう。
しかし、もし神から出たものなら、あの人たちを滅ぼすことはできまい。
まかり間違えば諸君は神を敵にまわすことになるかも知れない」
(5章38〜39節より引用)
よく、真理は歴史が証明すると言われます。キリスト教はこの時以来、2000年以上
存続し、世界中に広まりました。キリスト教はときには、ローマ帝国によって、また、
多くの権力によって否定されたことを経験しましたが、神のイエス(肯定)が勝利した
ことを歴史は証明しています。                                

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NO.25「人生は受動的である」

聖句
「よくよくあなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯を締めて、思い
のまま歩き回っていた。しかし年をとってからは、、自分の手をのばすことに
なろう。そして、他の人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行く
であろう」(新約聖書 ヨハネ福音書 21章18節)

◇これはヨハネ福音書の最後の章で、復活された主イエスが三度イエスを裏切った
ペテロに対して言われた印象的言葉です。これまでペテロは自分の思いどおりに
生きてきました。イエスに従うときは従い、裏切るときには裏切るといった自分の
思いどおりに生きてきたのでした。しかし、今主イエスにお会いし、「わたしを愛するか
と3度も問われたあとは、もはや、自分の意思ではなく、聖霊(キリストの霊)に
従っていかなくてはならないことが主イエスによって宣下されたのでした。

◇だれでも若いときは、自由奔放にいきたいものですし、またそれができるのです。
しかし、それがいつも良い結果、思い通りの結末で終わるかは疑問です。若い
ときの試行錯誤はゆるされますし、それによって成長する場合も多いのです。
しかし、定年退職する年齢ごろになりますと、若いときの生き方を今刈り取って
いるような気がするのは当然です。人間は自分が蒔いたものを結局は自分で
刈り取ることになるからです。不摂生な若いときの生活は必ずガン、糖尿病、
心臓病という深刻な病気となって老年期を苦しめるのです。

「行きたくないところに連れて行かれる」という言葉は今、わたしにとっても
実感として納得できるのです。これは、なにもそれが嫌だったとか、よかった
とかという次元を超えてほんとうにそうだなあと納得させられているのです。
つまり、それが人生であり、神を信じているわたしにとって「これでいいのだ」
と神に導かれて生かされてきたことをほんとうに肯定し、感謝し、喜ぶことが
できるのです。信仰とは神を信じることです。神の御手のうちにとらえられ、
思いがけなかった人生の道を歩かされたとしても、そこに「安心」を得られる
ことこそ、使徒信条の冒頭にある「わたしは信じます」という「告白」から生じる
実だと思うのです。

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NO.24「ペテロよ、引き下がれ」

聖句
「サタンよ、引き下がれ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」
 (新約聖書 マルコ福音書 8章33節)

レント(四旬節)に入りました。ピリポ・カイザリヤでイエスは弟子たちに、いったい
  人々は自分のことを何と言っているかと、尋ねられました。弟子たちは口々に、預言者
エリヤの再来ですとか、預言者のひとりだとか、ヘロデ王に首をはねられたヨハネの
生まれ変わりですとか、と答えました。次に、ではあなた方はわたしをだれと言うか
迫られました。そこでペテロが弟子を代表して「あなたこそキリストです」と的を射た
答えをしました。一応、イエスはその言葉を喜んで受けられました。

そのあとイエスは、これから自分は苦しみを受け、やがて殺される、しかし3日後に
よみがえることを予告されました。それを聞いたペテロは激しくイエスを諌め、思い
とどまらせようと努めました。そのときです、イエスはペテロをサタンを呼び、引き
下がれと怒られました。

◇ペテロはイエスのこともですが、じつは自分たち弟子の行く末を心配してなんとか
思いとどまらせようとしたことは確かです。ここでイエスに死なれたらいままで
従ってきた努力が水の泡になってしまうからです。じつは、ペテロをはじめ弟子
たちは、ピリポ・カイザリヤまでの行程で、イエスの奇跡の数々の現場に立会い、
イエスのその超能力に驚嘆しそして「キリスト」と告白したのでした。つまり
「栄光の主」のみを見て、心躍らせていたのです。

◇しかし、イエスは彼らの間違った「キリスト」像をここで壊されました。わたしは
苦難のうちに死ぬと。それは、人類の罪のあがないとしての死です。ここで
イエスが示されたのは「十字架の福音」です。「栄光の福音」はどうしても
「十字架(苦難)」を通過しなければならないのです。

◇ペテロを「サタン」呼ばわりされたのは、人の思いで、十字架を避けさせよう、
回避させようとするサタンの計略に加担しているからです(荒野の誘惑で
サタンは苦難を回避してオレを礼拝せよ。そうしたらこの世の栄華をやろう
と言ったことを思い出してください)。

◇「引き下がれ」とは「前に出るな」ということです。つまり指図するなと言って
おられるのです。ペテロはイエスの前に出て、指図したから叱られたのです。
だれでも「栄光」にあずかりたいです。しかし、イエスに従うみちは、苦難の
道であることを忘れてはなりません。だれが、最後までイエスに従えるので
しょうか。主の栄光はそうやすやすと手に入れることが出来ないことを
覚悟しましょう。

詳しくは、マルコ8章27〜38節をよく読んでください。
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NO.23 「ほんとうのオンリーワン」

聖句:
「あなたがtのうちに、100匹の羊を持っている者がいたとする。その1匹
がいなくなったら、99匹を野原に残しておいて、いなくなった1匹を
見つけるまでは捜し歩かないであろうか」
(新約聖書 ルカによる福音書 15章4節)

あなたはこのイエスのたとえ話を読んで、いったい自分は99匹の側の方か
それとも迷い出た1匹の側の方か、どちらに自分を置きますか?ほとんどの
人は自分は99匹の側だと言うのではないでしょうか。それはあなたが今、
しあわせな状態にあることの証拠です。

◇しかし、あなたも時々、非常に孤独な思いにかられるときを経験されたことが
あるでしょう。まわりにしあわせそうな人々に囲まれて、自分はひとりぽっちだ
と穴に落ちたような気分を・・・・。それが迷い出た1匹状態といっていいで
しょう。そしてそのとき、イエスさまのたずね求めておられる声を聞くのです。

◇あなたはあの有名な「世界で一つだけの花」(槙原敬之作詞作曲)をご存知
でしょう。ナンバーワンにならなくても、もともと特別なオンリーワン、と歌われ
ています。多くの人々が励ましと慰めとをうけたことでしょう。しかし、よく考えて
みると、自分はオンリーワンだと胸を張れるような者でないのではないかと
落ち込んでしまうのではないでしょうか。イチローではあるまいしそう簡単に
わたしはオンリーワンといえないさびしい現実が突きつけられます。

◇しかし、ここで発想の転換をして、この聖書の言葉に目を向けましょう。わたしが
どれほとダメな人間、孤独と劣等感にとりつかれている人間であっても、イエス
さまはわたしをオンリーワンと見て、あとの99匹を残してでも捜し求めておられる
と信じましょう。そのとき、イエスさまの愛と恵み(恩寵)に包まれる体験をします。
あなたがどんなに迷い出てた者(The Lost)であったとしても・・・・。

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NO.22  「あなたは何を見るか」

聖句:
「主の言葉がわたしにのぞんだ。"エレミヤよ,何が見えるか。わたしは
答えた。"アーモンド(シャーケード)の枝が見えます。主は
わたしに言われた。"あなたの見るとおりだ。わたしは、わたしの
言葉を成し遂げようと見張っている(ショーケード)。」
(旧約聖書 エレミヤ書  1章11〜12節)

◇2009年を迎えました。昨年9月以来、世界的に経済は悪化をたどっており、日本も
正月早々職を失い、寝るところも無い人々の様子がテレビに映されています。
日本はこの前まで1億総中流などと謳歌していましたが、この数年でこの様に
まで落ちてしましました。繁栄のもろさ、グロバリゼーションの悪い影響が顕著に
見られます。この数年、実体経済よりも虚構経済、すなわち「金融工学」に
よって利益をあげようとする傾向の結末です。アメリカのビッグ3の自動車会社
も、自動車製作のビジョンを描かず、取り組まず、金融工学で儲けようと、そこに
軸足を置いていた結果だと指摘されています。

◇さて、エレミヤの時代は、ユダ王国の末期、新バビロニアによる侵略のため風前の
ともし火状態でした。国の指導者たちはエジプトに助けを求めたり、偶像に祈りを
ささげたりして、まったく主なる神には立ち返ろうとはしませんでした。そういう
状況の中で、エレミヤは祖国の滅亡を預言するつらい預言者の立場にいたの
でした。その時、彼は主から何を見るかと尋ねられました。枯れたアーモンドの
枝を見ました。それはこれから新しい芽を出し、葉を茂らせるのか、まったく予想
もつきませんでした。しかし、主はエレミヤの預言に対してユダの人々がどのような
態度をとるかを見張るとおっしゃいました。それは、この危機的状況の中でユダが
滅びに定められていることでした。

◇ユダの徹頭徹尾主なる神に背反した結果は、バビロニアによる滅亡でした。過酷
ではありますが、それがユダの罪の支払う報い(報酬)でした。そうでないと収支の
バランスがとれないのです。しかし、ユダは滅んでおわりではない、再びユダを
回復するとの約束を主は、エレミヤをとおして語られるのです。エレミヤ書30章
より33章にかけて語れています。「あなたの未来には希望がある、と主は言わ
れる。息子たちは自分の国に帰ってくる」(31:17)。

◇エレミヤは、滅亡のあと、主がイスラエルの結ばれた契約をどこまでも守られる事
を希望として見ていたのでした。いま、わたしたちは暗い、希望の無い日本の国に
何を見るのでしょうか。気休めに「大丈夫、平安、平安」と言い聞かせることで
しょうか。エレミヤは鋭くユダの主に対する罪を告発しました。それを清算しな
ければ、新しい一歩は踏み出せないと語りました。わたしたちの日本も、どこ
からこのようなところに落ちてしまったのか、どこにその原因はあるのかと、根源に
立ち返って反省し、悔い改めましょう。それをうやむやにして、あせってもうまくは
いきません。足元を見つめ、前にある希望を仰ぎましょう

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NO.21 「神は独り子を賜う」   

聖句
「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子
を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」
(ヨハネ福音書 3章16節)

◇クリスマスの出来事は、この聖句のとおり実現しました。私たちを創造された神は
どんなに神のもとから離れ、神の怒りを買う悪を犯しても、滅ぼすことよりも、もう
一度立ち直らせ生かすことを意志されました神が独り子をこの世につかわされたのは
最終的な道でした。この道は、神みずからが犠牲と痛みと苦しみを担われたこの世
では到底起こりうることないものです。ですから、この「福音」をほとんどの人は信じられ
ないし、受け入れられないのです。

◇創世記18章を見ますと、悪の町ソドムとゴモラのことが書いてあります。神はこの
町をその悪のゆえに滅ぼすとアブラハムに伝えます。アブラハムは甥のロトの
家族がそこに住んでいたので、神に対してもしその町に50人の正しい者がいたら
どうか赦(ゆる)してくださいと執り成します。しかしいません。さらに彼は神と取引を
して10人いたらどうでしょうかと懇願しますが、残念ながらいませんでした。ついに
ソドムとゴモラは火で焼かれました。

◇この記事は私たちに何を教えるのでしょうか。それは、この世(私たちの世界)
には、神の赦しをうけるに値する正しい人がひとりもいないことを教えています。
ですから、神はご自分の御子をこの世につかわし、その御子に人間すべての
罪を負わせ、人間を救う道をとられたのです。ですから、イエス・キリストは私たち
を救う「道」であり、神から来られた「真理」であり、滅びることのない永遠の「命」
なのです。これは、クリスマスの「秘義(ミステリー)」です。理性(知識)によって
ではなく、信仰によってしか受けとめられないものといえましょう。

注)「独り子」とは、「一人子」とはちがい、「独自」という意味で、他にはないという
ことを指しています。

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NO.20  「求めるものと求めないもの」

聖句「
求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見出すで
あろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう」
(新約聖書 マタイ福音書  7章7節)

◇この聖書の言葉はよく知られている言葉です。宗教あるいは信仰は求めるところに
真髄があります。しかし、なんでも求めることがよいかといいますと、そうとは言え
ません。加島祥造という詩人が『求めない』という題の詩集を出し、評判になりま
した。そのいわんとするところは、まちがった求め方をすることを戒めたものだと
思います。わたしたちはまず父や母に必ず何かを求めます。夫婦、恋人同士も
相手に期待して多くを求めます。しかし、自分が求め、期待するものがなかなか
応えられないことが多く、いつも不満、不平をたぎらせています。

◇結局は、私たちが求めるものは、自分中心、自分勝手、自己満足できるものばかり
ではないでしょうか。わたしも祈りにおいて、神さまによく求めます。しかし、求めた
ことがかなえられたことのほうが少ないような気がします。すなわち、祈りにおいて
求めることを神さまはちゃんと見極めて応えておられるようです。これに応えては
わたしにとってよくないとして応えられないのではないかと思うのです。

◇まず、私たちは、自分が求めるものが自分にとって良いものか、また不適当なもの
かをよく吟味する客観的な目を持たなければなりません。求めてかえって不幸になる
こともあるからです。しかし、この判断は大変難しいことです。そこでわたしは思うの
です、あまり人(相手)には求めないことです求めるのは神さまだけにすればよい
のです。私たちが一生懸命求めるとき、それに応えられたときのみが、神さまの
御心にかなった願いであり、私たちにとって良いことだからです。ですから、一生
懸命神さまに求めましょう。そして、与えられたとき、見出したとき、開けてもらえた
ときが、それが正しい求め、祈りであったことがわかるからです。

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NO.19   「イエスと故郷」    

聖句
「この人は大工ではないか。マリヤの息子でヤコブ、ヨセ,ユダ、シモンの
兄弟ではないか。また、その姉妹たちも、ここにわたしたちと一緒に
いるではないか」  (新約聖書 マルコ福音書 6章3節)

◇イエスはおそらく数ヶ月ぶりにはじめて故郷ナザレに帰られた。それはたんに、
故郷の人々にも神の国の福音を宣べ伝える目的のためであった。そして、
安息日に会堂で聖書(預言書)から話された。それは普通の人たちが尊敬して
いるユダヤ教のラビ(教師)のような知恵と説得力があったので、故郷の人々は
正直なところ感心を通り越して驚嘆した。いったい、どこでこんな知恵と能力を
得たのか不思議に思ったのであった。

◇それと同時に故郷の人々は、われわれはイエスが大工の子であること、幼い
ときのことも知っている。ここにいるイエスの兄弟姉妹もみんな知っている、
なぜ、イエスだけがこんなに自分たちからかけ離れて立派になったかが理解
できなかった。彼らがイエスの現実の姿をそのまま受け入れられなかったのは
あくまでもイエスを自分たち以上の者であることを信じ受け入れられなかった
のである。もし、イエスが社会的な評価をうけたなら、たとえば、ノーベル賞や
金メダルなどをもらったならば拍手をもって迎えたであろう。

イエスは野にいる(アウトロー)人であったため何の肩書きもなかった。わたし
たちもイエスのほんとうの姿を理解したり、信じ受けいれられないのはわたし
たちの先入観や知識のせいである。わたしたちは自分の知的レベルでしか判断
できないし、受け入れられない。信じるためには、自分の持つ知力や判断力を
飛び越える決断が必要となる。故郷の人々は、あくまでもイエスのすべてを
知っているいう自信がわざわいして、目の前のイエスの現実のすばらしさを
認めながらも、承服できず、「つまずいた」(不信仰に陥った)のである。

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NO.18  「平和ー非暴力への道ー」


聖句「彼らの足は、血を流すのに速く、彼らの道には破壊と悲惨とがある。彼らは
平和の道を知らない。彼らの目の前には、神に対する恐れがない」
(新約聖書 ローマ人への手紙  3章15〜18節)

◇私たちがお金よりもさらに高次のものとして、愛、平和、幸福を求めるのではない
 でしょうか。どんなに裕福で豊かな環境にあっても、そこに、嫉妬、憎しみ、争いが
あれば不幸のきわみであると言ってよいでしょう私たちは平穏、平和を求め
ますがすぐに攻撃的になります。類人猿の遺伝子には、この暴力性、攻撃性、
残虐性があると言われています。ここに、聖書がいう「原罪性」みることができます。

◇この原罪性に打ち勝つことは、私たち自身の力では到底できません。イエス・キリ
ストの救いの力、十字架の罪の赦しを受けなければ不可能です。あの有名な「山上
の教え」では、キリストは相手の敵意に対して、愛をもって応えよと命じられました。

◇インドのガンジー、アメリカのマルチン・ルサーキング博士は
、「非暴力主義」
をもって勝利を得る道を唱え、身をもってそれを実行しました。反対者、攻撃する者
に、友情と理解と信頼を勝ち取るために、いっさいの暴力は使わず、報復せず、
徹底して非暴力のメッセージと夢(ヴィジョン)語りつづけました。
イエス・キリストは言われました。「平和を実現する者は幸いである(神の祝福を
受ける)。彼らは神の子とよばれる」<マタイ 5章9節 >  これが、イエス・
キリストが歩まれた<十字架の道>です。大変困難に思えますが、決して不可能
ではありません。事実、彼が実現され、神の子と呼ばれているからです。

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NO.17  『聞いて、信じて、生かされる」(その2)

聖句
「よくよくあなたがたに言っておく。死んだ人たちが、神の子の声を聞く時が
来る。今すでに来ている。そして聞く人は生きるであろう」
(ヨハネ福音書 5章25節)

◇ここで「死んだ人たち」とは、生きていながら死んでいるような生き方をしている
人を指しています。すなわち、生きる意味を見出せず、生きがいを見失って生きる
張りがない人たちです。そうした人たちの特徴は、人間関係(交わり)が希薄です。

◇ここでイエスさまが「死」と言っておられるのは、「交わり(関係性)の断絶」を意味
しています。いま、人間関係において、とくに家族の間、友人の間において、たと
え一緒に住んでいても、一緒に遊んだりしてつきあっていても、表面的で、心の
深い交流といったところまでなかなかいきません。さらに悪くなりますと、心に傷を
 負い、みずから交わり関係を絶ってしまうこととなります。
  もし、恨みや、憎しみなどが心のなかに渦巻いてくると、人を襲い傷つけ、あるいは
ストーカー行為に走ったり、挙句の果てに殺人にまで至ってしまいます。イエス
さまが、憂いておられるのは、自己の殻の中に閉じこもって、愛をなくしていることです。

◇イエスさまは、愛を失ったわたしたちの間に「愛(交わり)」を回復するために来られ
ました。ご自分の命をわたしたちのためにささげて、わたしの愛のうちに来なさい、
とどまりなさいと招いておられるのです。わたしたちがほんとうに生きる、否、生か
されるためには、どうしても愛が必要なのです。青少年の犯罪の多くは幼いときに、
愛されなかった、いいかえれば、自分を受け容いれてもらえなかった深い心のトラウマ
に原因があるとわたしは思うのです。人間は非常に複雑な動物です。両親、まわりの
人々から愛されなければ、健全な心の成長はありませんし、また、逆に、人を愛する
こともできません。イエスさまの教えと生き方の中心は「愛」なのです。ここにほんとう
に生きる、生かされる奥義があることを知ってもらいたいと願っています。

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NO.16 「聞いて、信じる」(その1)

聖句「よくよくあなたがたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわ
された方を信じる者は、永遠の命を受け、また、さばかれることなく、
死から命に移っているのである」(ヨハネ福音書 5章24節)

◇キリストは基本的に「聞く宗教」であることをイエスはここで、強調されています。
人はどのようにして信じるにいたるのでしょうか。 (1)「見て、信じる」(Seeing
is Believing)・・・多くの人は、イエスの奇跡のわざを見て信じました。弟子たちも
イエスのそこに惹かれていました。しかし、イエスが捕まえられ、十字架へと引っぱら
れた時あっさり見捨ててしまいました。ここに見て、信じることの薄さを見ることが
できます。
つぎに(2)「考えて、信じる・・・理性的に納得できれば信じるという信じ方です。
これは学問をよくする人に見られます。しかし、この信じ方の欠点は、信仰から
行動(実践)はあまり出てきません。いわゆる、哲学者の神(理神論)と言われます。

最後に(3)「聞いて、信じる」・・・聞き方にはいろいろあります。うわべだけで聞いて
いる。また、ほんとうに心から聞くという聞き方があります。相手のほんとうに言わん
としていること、訴えているところの真意を聞き取ろうとする真剣な態度。これがイエス
がここで「わたしに聞きなさい」言われていることです。心を開いて聞く。その時、ある人の
言葉が、自分の人生を変えることがよくあります。
わたしたちが、イエスの言葉を真剣に聞き、それを信じ受け入れるとき、「聖霊の働き」
が作用します。いわゆる、インスピレーション(聖霊を受けること)が働き、その言葉に
圧倒されるのです。人間の一番深いところにイエスの「言霊」が突き刺さり、変わらされ
ます。 パウロは「したがって、信仰とは聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉
から来るのである」(ローマ書 10:17)と説いています。

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NO. 15 「神の時を生きるとは」
聖句「天の下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある・・・・。
神のなされることは、皆その時にかなって美しい」
(旧約聖書 伝道の書(コヘレトの書) 3章 1〜11節)

◇この知恵の言葉は多くの人々から愛され、深い共感を得ています。人生(時間)
はときとして、川の流れよりも速く流れているように感じられ、そして、「歳月、
人を待たず」と言われるように、ある意味「時間」は残酷です。多くの人々は、
「人生のやり直しが出来ないっていうことは、ほんとうにとても悲しい」と言い
ます。とくに、60歳を越えるとつくづくとそう思います。出来るものなら、時を
巻き戻したいものです。

◇この聖句には、「流れる時間(クロノス)」の中に、「神の時(カイロス)」が隠され
ていることを教えています。私たちは、人生の中でいろいろ失敗や試練に会い
ますが、それはたんなる失敗や試練で終わらせてはならないのです。そこに神の
はからい(計画)があることに気づくことが大切です。神の時と捉えるとき、そこに
深い人生の意味を見出すことができるのです。ネガティブな出来事もポジティブに
捉えなおすことが出来ます。また、そこから新しい道が開かれる場合もあります。

◇特に「死」は、人生の中でもっとも目をそらしたいものの一つです。しかし、避けよう
とせず、死を終着点と捉え、そちらの方から自分の人生を見つめるとき、今ある
自分の生き方を考え直すチャンスとなります。神の時は、神の計られるタイミング
ともいえます。人生に起こるさまざまな出来事の中に、積極的な意味を見出す時、
私たちの人生は変わってくるでしょう。

注)「クロノス」、「カイロス」という単語は、聖書の中に出てくるギリシャ語です。

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NO.14 「教会とは」(3)
ー教会はキリストの体であるー

聖句「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、
体は一つであるように、キリストの場合も同様である。・・・あなたがたは
キリストの体であり、また、一人一人はその部分です」
(コリント信徒への手紙 12章13節と27節)

◇お寺や神社には大勢の人たちがお参りにいきますが、それらの参詣者がお互い
に、横のつながりをもってひとつの組織(体)を作ろうという意思はほとんどない
といっていいでしょう。自分と仏さま、神様との直接的な関係だけを意識して祈願
をしていると思います。残念ながらキリスト信徒のなかでもそう考えている人も
います。しかし聖書は教会は「キリストの体である」と定義しています。

◇教会はいろんな人たちが集まり、構成しています。その多様性、個性のちがい
が体を組織しているさまざまな臓器をはじめとする体の部分に、ここでは、
たとえられています。重要度も働きの点でも千差万別ですが、どれ一つとして
なくては困るものなのです。指先を切っても、歯が痛くても体全体に走り、
正常な生活はできなくなります。つまり、体は神経や血液の網の目で、みな
つながっているのです。確かに優劣の点で差もあるでしょうが、「お前は
いらない」と相手に向かっていえない関係なのです。

◇有名な思想家パスカルは、「パンセ」の書で、「もし手や足といった各器官が、
それぞれの意思を主張したら、秩序のうちにあることはないであろう。全からだ
を治める第一の意思にそれぞれが服従して、はじめてそれぞれの働き(部分)
が生かされ、幸福となる」言っています。キリストの教会もそれと同じく、かしら
(頭)であるキリストの意思に統一的、統合的に従うとき、健全な体になり、キリ
ストの使命を果たすことが可能となるのです。

◇教会は完全ではありません。だからといってダメだときめつけることは避けたい
ものです。キリストの完全さが目標です。その目標に向かって成長していく過程
にあるのだと希望を持つべきです。どの組織にも、自分の能力や有能さを誇る
自分を卑下したり劣等感で萎縮する人が必ずいます。しかし、教会では
「全からだを治める第一の意思」といわれる「キリストの意思」に服従すること
が最優先されるのです。キリストに従うとき、それぞれの個性が生かされ、
互いに相補い合ってキリストのみ心を実現することができるのです。それが、
「キリスト教会」の目的です。

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NO.13  「教会とは」(2)
ー何をするところかーその1

聖句「そこで彼(ペテロ)の勧めの言葉を受け入れた者たちは、バプテスマを受け
たが、その日仲間に加わったものは三千人ほどあった。そして一同は
ひたすら、使徒たちの教えを守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、
祈りをしていた」  (使徒行伝 2章41〜42)

◇教会では一体どんなことをしているのか教会の外の人たちにとっては興味が
あることでしょう。新約聖書の「使徒行伝」にはキリスト教会が誕生してころの
様子が生き生きと描かれています。ペテロの宣教を聞いてイエスをキリストと
受け入れた人々は一つの所に集まり、そしてそれぞれがお互いに持ち寄った
財産を出し合って生活も共にしていたようです。

◇では教会の中ではなにが行なわれたかといいますと、使徒たちの教えを聞き
それを守っていたのです。使徒とはイエス様の直弟子で直接イエス様の言葉
と数々のわざを見聞きし経験をしていた人たちです。いまのような聖書はあり
ませんでしたので、直接彼らの口からイエス様の言葉を聞いたということです。

◇教会でいちばん大切なのは「礼拝」です。礼拝とはイエス・キリストを「主」と
崇め、賛美と祈りをささげることです。キリストが私たちの生活の全領域の
「主(人)」となってくださり支え、導いてくださることを祈り求めるのです。そして、
もっとも重要なのは、礼拝の中で語られる聖書のみ言葉の説き明かし、すな
わち「説教」です。この説教は神からの恵みの言葉として信仰もって受け
止めます。その言葉が私たちの内なる力となるのです。

◇では、キリスト教のご利益はなにがあるのかと疑問が出てくるかもしれません
が、他の宗教のようにこれといった目に見えるわたしたちが求めるところの
ものは即座にはいただけないかもしれません。しかし、キリスト教の根源的な
ご利益とは、わたしの人生そのものが変わることです。それを「新生」の経験
といいます。自分の「罪」がわかり、その罪を犯す弱さに打ち勝つ力をイエス様
からいただけるのです。そして、キリストと共に生きることによって「この世に打ち
勝つこと」ができます。すなわち、この世の「価値観」に支配されず、それ以上の
価値観でもって生きられるのです。

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NO.12 「教会とは」(1)

ーどんな人が集まっているのかー

聖句「すると、ペテロが答えた、”悔い改めなさい。そして、あなた方ひとりびとり
が罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によってバプテスマを
受けなさい。そうすれば、あなた方は聖霊の賜物を受けるであろう」
(新約聖書 使徒行伝  2章38節)

◇教会にはどんな人が集まっているのでしょうか。「教会にいらっしゃいませんか」
とお誘いすると、「わたしのような汚れた人間の行くところではありません。もう
少しましな人間になってからうかがわせていただきます」と言う方がよくいらっしゃい
ます。教会は立派な人、聖人のような人が集まっていると誤解されているのです。

◇教会は立派な人や清い人が集まるところではなく「罪びと」が集まっているところ
です。しかし「罪びと」といっても誤解しないでください。決して犯罪者の集団では
ありません。聖書がいうところの「罪びと」とは、神の前に罪ある者という意味です。
法律に違反する以前の罪も含まれています。「姦淫、貪欲、邪悪、欺き、好色、
嫉妬、そしり、高慢、愚痴」(マルコ福音書 7・22)などが挙げられています。
これらの罪は私たちの人間性を汚し、卑しくするのみならず、対人関係において
もその人間関係を壊します。罪のいちばん恐ろしいところは人間の「愛」を冷やし
不信に陥れるところにあります。そういわれれば、だれでも思い当たるところの
一つや二つはあるでしょう。

◇「罪について述べましたが、教会はイエス・キリストの言葉によって自分は罪びと
だということを知り、キリストによる罪のゆるしと救いを信じたものが集まって
いるところです。ですから、決して立派で清い人間の集まりではないのです。
先ほど「もう少しましな人間になって」と言う人がいると言いましたがこの人の
考え方は間違っています。まず、この人はほんとうに「ましな人間」になりたい
と思っているのか、また、ましな人間になったら教会に来ようとおもっているのか
本音を聞きたいものです。はっきり申し上げて自分の決心だけでは「ましな人間」
になることはできません。むしろそれよりも、勇気を出して教会の門をくぐりイエス・
キリストと出会い、信仰によって自分が変わるという「新生」の恵みにあずから
れることをお勧めします。
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NO.11 「真理は自由を得させる」

聖句「イエスは自分を信じたユダヤ人に言われた、”もしわたしの言葉のうち
にとどまっておるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子なので
ある。また真理を知るであろう、そして真理はあなたがたに自由を
得させるであろう」 (ヨハネ福音書 8章31〜32節)

◇いったい真理とは何か。古来ギリシャ思想を中心に語られてきた大きなテーマで
ある。数学では、きちっと証明できれば真理である。ある場合、正しいこと、変わら
ないもの、実際に役立つものといったものが真理であると考えられている。一言で
いえば、知性や理性で理解できるものといっていいであろう。しかし、ここでイエスが
言われたことは、いままでの真理観をくつがえすものである。

◇まず、「わたしの言葉にとどまれ」を言われた。これは、イエスとの「関係を持つ」
こと、すなわちつねにコミューニケーション(対話)持つことを求めておられる。
それは、イエスのなかに真理を見出し、その真理を行なえ(実践)ということ
なのである。ここにギリシャの真理(イデア)と違うところがある。イデアは
観想的」であり、アイデアリズム(Idealism)は理想論で終わるからである。

◇では、自由とはなんであろうか。作家高橋たかこ氏は「一切のモラルを無視する
ことが自由(解放)ではない。内なるモラルを自分自身で作ることが出来、それを
生きることが出来る人が自由な人なのである」言っている。では、わたしたち自身
は自分で自分のモラルを作ることができるだろうか。わたしは出来ないと思う(完璧
な意味で)。キリスト者はイエスの言葉に従うときキリストの自由を与えられると信
じる者である。プラトンは「国家」論のなかで、「自由な人として、服従することを学
ばない者は、やがて、奴隷として服従しなければならなくなる」と述べている。ここ
で「自由」と「服従」という相反することがいわれている。じつは、イエス・キリストに
喜んで(自発的に)服従する者が、本当の自由を持つことができるをいう「逆説」が
実現するのである。宗教改革者ルターも「キリスト者の自由」でその消息を述べて
いるので、ぜひ読んでもらいたい。

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NO.10 「聖書は何の書か」

聖句「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、
この聖書はわたし(イエス)について証しするものである」
(ヨハネの福音書  5章39節)

◇いったい、聖書はどのような書物であろうか。人それぞれにどのように読もうとそれ
は勝手であり、自由である。ある人は「おとぎ話」、また「ヘブライ人の歴史の書」
 、「金言名句の人生の書」等々、いろいろな意見が出てくるであろう。わたしの
 印象に残っているのは、今から40年ほど前に、法政大学教授の本多 顕氏が聖書
を「愚者の楽園」というきめつけた新書を出版したことを思い出します。彼が言う
のには、聖書のなかにはまず荒唐無稽な馬鹿げた話しで満ちている。また、性的
なエロイ話しや残虐な人殺し、戦争など人間の愚かな話しで満ちているいって、
  これが「聖なる書」といえるであろうか結論づけました。本多氏が言うところは、聖書
のある一面を突いているが、聖書はそんな浅薄なものではない。

◇ここでイエスが「聖書」と言っているのは「新約聖書」の誕生以前に存在していた
「旧約聖書」を指している。旧約聖書はいわゆるヘブライ人(ユダヤ教徒)と神(ヤ
ハウエ)との契約の書である。そしてその中心は、ヘブライ人を救うためにやがて
神は「メシア」(救世主)を送るという約束の書なのである。そのために、モーセが
与えた神からの律法(神との契約事項)を厳守することが求められていた。旧約
聖書は律法ばかりではなく、歴史、詩歌、預言書などバラエティに富んでいるが・・。

◇当時の熱心なユダヤ教徒は、聖書を律法の書と見なし、さまざまな行動を規制して
いたのである。それで、イエスの言動を見聞きしたとき、イエスのそれは律法に
違反していると見て敵意を抱いたのである。すなわち、熱心なユダヤ教徒は自分
たちが正しく聖書を理解していると思い上がっていたのである。

◇そこでイエスは、わたしのしている「わざ」(奇跡などを指す)をよく理解してみれば
わたしが父なる神からつかわされたものであることがわかる。わたしは父のみこ
ころに沿って、病気の者、心の病をもって苦しんでいる者などを癒し、助けている
のであるとイエスは言っている。父なる神の愛は弱く苦しんでいる者、自分の罪に
葛藤している者に注がれていることを示されたのである。 聖書を正しく読むという
ことは、聖書がイエスを神の子キリストであることを証言していると信じられたとき
はじめてそうだといえるのである。永遠の命は聖書の中にあるのではなく、イエス・
キリストを信じる信仰のなかにあるのである。(ヨハネの福音書 5章19〜47節に
詳しくそのことが書いてあるので、よく読んでください)

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NO.9 「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に」

聖句「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」  
(マルコ福音書  12章17節)

◇敵視していた勢力は、イエスを捕らえるためにいろいろな策略をめぐらし、陥れようと
迫ってきた。ローマ支配に反抗的なイエスの言質をとるためであった。その質問は
ローマ(カイザル)に税金を納めるべきか否かというものであった。当時、納税を
否定すれば反逆罪にされた。もしイエスが否定すれば捕らえることが出来ると彼ら
考えていた。また逆に、ローマ支配を受け入れれば、民衆から失望されるだろう
との目論見であった。             

◇イエスは意外な答えをされた。それはカイザルのものはカイザルに返せ、神のもの
は神に返せと言われた。ここでイエスが「返せ」という言葉を使われたことに注目
しよう。「返す」とは、借りたものを返す、預かったものを返すということである。
すなわち、そこには「御礼」「感謝」の意味が含まれている。

◇当時、ユダヤ社会においては神殿税というものがあった。それは本来神に感謝して
捧げるべきものであったが、次第に義務化されてきた。それゆえ、それを怠る人も
多かった。ひるがえって、現在キリスト教会にも「献金」がある。その献金の根本
には、神が独り子イエス・キリストをとおして罪びとのわたしたちを犠牲を払って
救ってくださったという大きな「恩恵」に対しての感謝の心がこめられている。その
信仰が分からなければ「献金」をも理解することはできない。キリスト信徒でなく
ても、わたしたちは自然から多くの恩恵や助けを受けていることはしっているはず
である。それらも神からの恩恵である。

◇わたしたちが持っているもの、得たもの、命などすべてわたしたち自身のもので
はない。ある意味では、神から賜ったもの、預かったものといっていい。それ
ゆえ、神に「返す」ということがいわれるのである。イエスは、わたしたちが税金
のことに対しては敏感であるけれども、神の恩恵、配慮に対して鈍感なことをここ
で指摘されているのである。  

注)カイザルとは、ローマ皇帝の総称です。
注)マルコ福音書の12章13〜17節全体をよんで、全体像をつか
でください。      

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NO.8 「運命か摂理か」

聖句「あなたがたは、わたしに対して悪をたくらんだが、神はそれを
良きに変わらせて、今日のように多くの民の命を救おうと
計られました」 (旧約聖書 創世記 50章20節 )        

◇人生には、不幸な出来事や心身に障害を持つなど言いようのない怒りや悲しみ
が満ちあふれている。それを前世の因縁、祟りなどと決め付け、悩む人を納得
させ、金品を巻き上げているインチキ宗教が多い。                

◇しかし、キリスト教では、それらを「運命(因縁)」とか「定め」とかとしては受けとめ
ない。むしろ、不幸や苦しみのなかに神の”何か”のお計らいを見出そうとする。
よく「自分の失ったものより、まだ残っているものに感謝せよ」言われる。体操
教師であった星野富弘さんは、事故で首から下が不随になったが、口で絵筆を
執って多くの人々を勇気づけ、感動させる「詩画集」を世に送っている(彼は
クリスチャンである)。彼は自分の人生に、神の摂理を見出したのである。                               
「摂理」とは、わたしたちの人生のうちに働かれる神の意思、あるいはご計画と
いっていい。

◇さて、旧約聖書の人物ヨセフは、彼の過酷な人生のなかに神の摂理を信じて
忍耐し誠実に生きた典型的人物である。兄弟たちの妬みと憎しみによって
エジプトに奴隷として売られ、さまざまないわれなき罪を負わされたが、神は
彼を救い、ついにはエジプトの飢饉対策の大臣にまで引き上げられたので
ある。そして、偶然にも飢饉で食糧を求めにやって来た親、兄弟たちと劇的な
再会をするのであるが、そこではじめて神が自分に与えた使命とご計画に
気づき、冒頭の「聖句」の言葉を吐いたのである。  ヨセフは神が描かれた
自分の人生の「設計図」をはじめて悟り、兄弟たちの悪(罪)を赦し、神の
なさった不思議な摂理に感動したのである。  神の摂理はわたしたちが
マイナスと考えていることをプラスにしてくださることを知るのである。 
 注)創世記50章15〜21節を読んでください。

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NO.7  「欲望の果てには」

聖句「人が誘惑におちいるのは、それぞれ、欲に惹かれ、誘われる
からである。欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み
出す。愛する兄弟たちよ、思い違いをしてはならない」
(新約聖書 ヤコブの手紙 1章14〜16節)

◇だいたい私たちが失敗したり、罪を犯したりするのは「欲望」に惹かれ負ける
からである。「マッチ一本、大火事のもと」といわれるように 欲が欲を生み
出し、嘘が嘘生み出してついには取り返しのつかない大きな犯罪に導く。

◇性欲、物欲、食欲などは私たちの「生のエネルギー」として本来、肯定される
べきものである。しかし、それらがブレーキを失い、突っ走ってしまうとき
私たちの人生は破滅へと向かう。欲や罪の恐ろしいところは自分だけが
だめになったり滅びたりするのではなく、欲望は必ず相手、あるいは周囲
の人々を巻き込み不幸のどん底へと落としいれるところにある。
「欲がはらんで罪を」、「罪が熟して死を」という部分は欲と罪の不気味さ
をよく表している。                                

◇私たちは、自分が持っている欲望を自己中心から解放することに注意を
はらうべきである。キリストの愛の精神をしっかり継承した使徒パウロは
このように言っている。
『兄弟たちよ、あなたがたが(キリスト)に召された
のは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く(欲望
を果たす)機会としないで、愛を持ってたがいに仕えなさい。律法(戒め)
の全体は ”自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ”というこの
一句に尽きるからである。気をつけるがよい。もしたがいに噛み合い、
食い合っているなら、あなたがたはたがいに滅ぼされてしまうだろう』
(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 5章13〜15節) 
 
◇キリスト教は「自由」ということを大変重要視する。マルチン・ルターの主著
は『キリスト者の自由』である。私たちは自由を持っているがほんとうに
自分の欲望をコントロールできる自由を持っているだろうかと自問する時
自分はなんと弱い人間であろうと嘆かざるをえない。この弱い、愚かなわたし
を救ってくださるのがイエス・キリストである。              
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NO.6 「試練(苦しみ)のあることの意味」

聖句
「試練を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおした
なら、神を愛する者たちに約束された命の冠を受け
であろう」新約聖書 ヤコブの手紙 1章12節   

◇試練や苦しみがなぜあるのかというのは、人生における最大の問題の一つで
ある。それらから逃れるため、あるいは解決してくれるのが宗教の存在理由
 であるという人も多い。ではキリスト教はそれをどうとらえているのであろうか。

◇キリスト教では、キリストを信仰することによって試練や苦しみがなくなるとは
考えない。イエス・キリストの生涯そのものが試練と苦しみの連続であった
からである。キリストはそのなかにあってどのように父なる神のみこころを
行なわれたかを私たちは学ぶ必要がある。                  

◇聖書は試練を訓練ととらえている。試練と向き合いそれに耐えるとき私たち
は信仰の新しいステージに引き上げられ、より強くなる。スポーツの鍛錬
みればそのことはよくわかる。また、神さまは、私たちが試練にじゅうぶん
耐えられ、切り抜けられる道と力を与えてくださっている(コリント第一 
10章13節を読んでください) 。                        

◇偉大な信仰者パウロは「艱難は忍耐を生み出し、忍耐はさらに練達を生み
出し、練達は希望を与える」(ローマ書5章3節)とみずからの体験を述べて
いる。とくに「練達」とは、まるでそれが自然であるようにふるまえることで
ある。たとえば、「体操」の鉄棒演技など見ているとあまりに見事で自然に
やっているように思える。そこまでいけば、入賞という希望が見えてくる。

◇私たちは試練をとおして、その試練を与えられる神さまの愛を知らなければ
ならないし、神さまのみこころがわからなければならない。もし、試練が
なければ私たちの人生は味気のない、スパイスの効かない人生になって
しまうだろう。また、人間的、人格的にもまったく成長のない、魅力のない
ゆるんだ人生になるだろう。
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NO.5「必ず明らかにされるもの

聖句「隠されているもので、あらわにされないものはなく、
秘密にされているもので、ついには知られ、
明るみに出されないものはない」
新約聖書 ルカによる福音書 8章 17節

◇この世では、自分を見せびらかせ、虚勢を張ることがよくある。人々は自分の
「うわべ」だけを見せ、「内にあるもの」を隠そうとする。たとえば人は自分の
「劣等感」を隠すために見栄をはり、なにか価値(値段)の高い物を持って
「優越感」を満足させようとする。その一つの表れが、身分不相応の「ブランド
品志向」である。それを手に入れ何か自分が高いところに昇った錯覚を得て
満足するのである。

◇私たちの周りには、自信喪失、劣等感、失望、絶望が満ちあふれている。
そうしたものが、社会を暗くしている。毎日起こるさまざまな殺人事件、傷害
事件、ネットでの誹謗中傷、器物損壊、落書き、暴走騒音走行などなど枚挙
にいとまがない。それらを自分の心から取り除こうとしないで、外に発散する
ことで解決しようとするから人々や社会に迷惑をかけるのである。

◇ではそれらの心にある闇を取り除くものは何であろう。それは「光」である。
ひとり一人が自分自身をありのまま受け入れ、自分を肯定できる何かを
心に持つ必要がある。その「光」は自分のうちにはなく自分の外から来る。

◇イエス・キリストは「光」である。私たちのいちばん深い心の闇のところに届
いてくださる。キリストは私たちのありのままをそのまま受け入れてくださり、
私たちに自信を回復させてくださる。そのとき「自暴自棄」から立ち上がり、輝
くことができる。その「内なる光」が自然に表に出てくる。それはブランド品で
光り輝いている「虚栄の光」とはまったく違うものである。キリストを信じ、従う
者は生まれ変わることができる。

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NO.4  「神への信仰とは」

聖句「あなたは自分が抱いている確信を、神のみ前で心の内に持っていなさい。
 自分の決心にやましさを感じない人は幸いです」(ローマ人への手紙
    14章22節)

◇「信仰」と「信念」を取り違えてはならない。「信念」は自分の考えに凝り固まり、 
  自分が正しいと思い込む危険性がある。パウロはそこのところを指摘している。
  信仰の確信は神のみ前において持つものだからである。

◇聖書のいう「信仰」とは、神との関係であり、神の言葉(聖書)を聞くことからはじ
  まる(ローマ 10:17を参照)。そして、つねに神に対して自分の信仰を問いかけ
  なおす作業でもある。つまり、神のみ前において正しく信仰を持つことを、つねに
  追い求めていなければならない。

◇私たちがよく思い悩むことは、「自分に果たして信仰があるのだろうか」という
  ことである。しかし、その問いかけは、結局は信仰を自分の意志努力や精進に
  よって維持できるという誤解から生じていることに気づかねばならない。
  正しい信仰は、自分側に信仰の確かさを求めるのではなく、それよりも、神の
  救いの恵みの確かさ、神の愛の確かさこそ私たちの信仰の確かさの拠りどころ
  であると悟るところにある。それゆえ、信仰とは神との人格的関係、スタンスで
  あるといえよう。

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NO.3 「おのが日を数えよ

聖句「だれがあなた(神)の怒りの力を知るでしょうか。だれがあなたをおそれる恐れ
    にしたがって、あなたの憤りを知るでしょうか。われらにおのが日を数えること
    をおしえて、知恵の心を得させてください」 (旧約 詩編 90:11〜12口語訳)

◇日本では古くから「人生は無常だ」と考えてきた。”ゆく河の流れは絶えずして、しか
 ももとの水にあらず”と鴨長明は「方丈記」に述べている。また人生は”うたかた”(泡)
 だと言っている。また、日本の有名な”いろは歌”も"色は匂えど、散りぬるを・・・”で
 はじまり その全編”無常感”が漂っている。

◇聖書の詩編90編を読めば、それと似た”無常感”が漂っている。しかし、よく読めば、
 「方丈記」など と根本的に違っているところは、この詩人が神と対話しながら語っている
 点にある。彼は、神への信仰をもって、自分の人生が神の手によって握られ、翻弄されて
 いることを告白している。

◇詩人は ”おのが日を数えることを教えて、知恵の心を得させたまえ”と、祈っている。
 これは、今日か、また明日かいつ自分が天に召されるかもしれないとの覚悟をもって
 いる。裏返せば、いま、自分はどう生きるべきかを真剣に考えていると言ってもよい。
 そして、平安のうちに天に召されるためには、神への罪のゆるしが与えられることを
 願っている。死は恐ろしい。しかも、神への罪の清算なくして死ぬことはもっとも恐ろしい。
 人生において、自分の命運を知ること、これが「知恵の心(髄)」こころである。
 最終的に、わたしたちはイエス・キリストによって罪のゆるしを確信し、神との和解をいた
 だかなくてはならない。
   旧約聖書、詩編90編全体をよく読んでください。

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NO.2 「心のある場所(ところ)

聖句「盗人らが押し入って盗み出すこともない天に宝をたくわえなさい
あなたの宝のあるところには、心もあるからである」
      新約聖書  マタイ福音書  6章 20〜21

◇「宝」とは、自分の命の次に大切なものを意味する。人生途上において、
 その時、その時にこれぞと思えるような「宝}が登場することも多い。しかし、
 ほんとうの究極的な「宝」を見出すことを人生において目標にすべきである。
 残念ながら、多くの場合人生のその時、その場に現われるものを究極の宝
 だと勘違いして失敗することもある。それは、この世の宝に心奪われて究極
 の宝(ここでは神の国)を見出せなくなっているということである。

◇ともすれば、私たちはこの世の宝に対して結局は従属的になってしまう。いい
 かえれば、支配されてしまう。つまり、身も魂も奪われてしまう。ここでイエスは
 二人の主人(神と富)とに兼ね仕えることは出来ないと言われた。どちらか一つ
 に集中せよと命じられたのである。目が澄んで(一点に集中して)いれば全身が
 明るい。我欲と自己中心から解放され、他人のニーズが見えてくるし、共に生き
る道も開けてくる。

◇アウグスチヌスは「神は、私たちの心をを神に向けておつくりになった。したが
 って、神に向かうまではほんとうの平安を得られない」と言ったが、私たちの心が
 神に向かっておれば、ほんとうの「宝」に心が置かれて、神を主人として人生を
生きることができ、どんな場合でも平安に導かれる。
 やはり、この世の「宝」の方が魅力的かな?ここが決断のむつかしいところでは
 ないだろうか。
  注)マタイ福音書 6章19〜24節をぜひお読みください。

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NO. 1「真の親・きょうだいとは」

聖句わたしの母とはだれのことか。わたしの兄弟と
はだれのことか。天にいますわたしの父のみこころ
を行う者はだれでも、わたしの兄弟また姉妹、また
母なのである」 (マタイ 12:50)

◇イエスが神の国の宣教活動にはいられた時、不安を感じた母マリアと
兄弟たちはイエスをいさめるためにやって来た。それはイエスを思って
(心配して)のことであった。親子関係、きょうだい関係は、現実には
それほど麗しいものではない。ドロドロしたその関係は、他人の関係より
始末が悪い。今の時代どれほどの人々がそのことで傷つき、
苦しんでいることか。 イエスはそのところを見抜いて、
ほんとうの親子・きょうだい関係のあり方についてここで発言されたのである.

◇イエスは「自然(ありのまま)」の親子関係、家族関係をここでは否定されて
いるのである。そして「天の父なる神のみこころを行う人」たちによって実現する
ものであると言っておられる。  一度、自然的親子関係、家族関係が否定され、
キリストの愛による新しい関係につくりかえられなければならないということである。
いいかえれば、自然の親子・きょうだいで「ある」ことを捨て、キリストにあって
新しく親・きょうだいと「なる」ということである。この「なる」ということが
キー(鍵)である。

注)新約聖書 マタイ 12章46〜50節を
ぜひ読んでください。
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